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家いちば見聞録

関東一の過疎の山奥“上野村”の美しい川と空に隠された物語

群馬県上野村|人口千人にも満たない小さな山村から育まれたものとは 夏の暑い日には、涼しい場所へ行きたくなる。利根川の上流に、「関東一の清流」と呼ばれる神流川(かんながわ)がある。名前を聞くだけでも涼しげな川だ。その源流にあるのが、群馬県上野村である。群馬県の旧国名は「上野国(こうずけのくに)」だが、この村はなぜか「うえの」と読む。調べてみると、この村の人口は約950人。離島を除けば、関東で最も人口が少ない自治体だという。場所は群馬県の最西部で、すぐ西は長野県。関東の奥地だ。山奥の村だから人口が少ないこと自体は不思議ではない。しかし、人口千人にも満たない自治体の多くは、平成の大合併で近隣の市町村に吸収されていったはずだ。なぜ、この小さな村は合併しなかったのだろう。調べれば調べるほど謎が浮かんでくる。私は上野村へ向かった。 「関東一の清流」神流川で遊ぶ子どもたち 国道299号線を上ると、「川の駅上野」がある。道の駅ならぬ「川の駅」という名前が面白い。ここは上野村の交流施設「ふれあい館」を兼ねていて、砥根平の吊り橋を含む「きらめき清流コース」という散策路が神流川沿いに整備されている。河原にはたくさんの車が停まり、その荷台には浮き輪や水鉄砲など、子どもたちの遊び道具が積み込まれていた。透き通った川では子どもたちが歓声を上げながら泳ぎ、その少し下流では大人たちが竿を垂れてのんびりと川釣りを楽しんでいる。水面をのぞき込むと、小魚が群れをなして泳ぐ姿がはっきり見えた。これほど透明な川は、関東ではそう多くないだろう。駐車場には群馬だけでなく、埼玉や長野ナンバーの車も並んでいた。近隣県から週末を過ごしに来る家族連れにとって、この場所は格好の遊び場なのだろう。夏休みの真っ盛りだったが、人であふれ返るような混雑はない。都会のレジャー施設とは違う、ちょうどいい賑わいが心地よかった。 神流川水系は、首都圏の重要な水源 この神流川は、この少し下流で下久保ダムへと流れ込む。関東有数の規模を誇るこのダムは、首都圏の重要な水源の一つだ。神流川水系は水質が極めて良く、水量にも恵まれていることから、多くの人々の暮らしを支えているという。神奈川県には「神奈川の水がめ」と呼ばれる丹沢湖があるが、神流川水系はそれ以上に広い地域の命を支える、首都圏の水がめと言ってよいだろう。目の前では子どもたちが歓声を上げながら川遊びを楽しんでいる。その何気ない清流が、遠く離れた都会の暮らしまで支えていると思うと、この川は単なる観光資源ではなく、関東の宝なのだと実感した。 自然美しいスーパー林道 今度は山へ向かうことにした。上野村を上から眺めてみたかったからだ。目指したのは、御荷鉾(みかぼ)スーパー林道の途中にある展望台である。御荷鉾山は難しい字を書くが、前橋や高崎の人には馴染み深い山だという。ラクダのこぶが二つ並んだような特徴的な山容をしていて、昔の人には美女の横顔にも見えたことから、「みかぼ」の名が付いたとも伝えられている。 林道は全面舗装されていて走りやすいが、路面には木の枝や小さな落石が点在し、気は抜けない。すれ違う車もほとんどなく、深い森の中をゆっくりと登っていく。周囲には植林されたスギ林が続き、その合間に原生林らしい深い森も姿を見せる。これほど豊かな山なのに、国立公園や国定公園には指定されていないという。さらに調べると、この一帯の大部分は群馬県の県有林だった。これほど広大な山林を県が所有・管理している例は、そう多くないように思える。なぜ、この山は県有林になったのだろうか。 「低くても険しい」人を寄せ付けない関東山地 そのような深い森を抜けると、不意に視界が開けた。展望台へ上がると、真っ青な空に太陽がまぶしく輝いている。空が近い。そんな感覚を覚えた。眼下には、山また山の大パノラマが広がる。富士山のようなひときわ目立つ名峰があるわけではない。しかし、ノコギリの刃のように鋭い稜線が幾重にも重なり、その先まで果てしなく続いていた。人を容易には寄せ付けない険しさを感じる風景だった。 ここは関東の西の端にあたる。古代から中世にかけて、都の人々は関東を「坂東(ばんどう)」と呼んだ。「坂の向こう側の国」という意味である。眼前に連なる山々を眺めていると、その「坂」とは、このような険しい山並みを指していたのではないかと思えてくる。道路もトンネルもない時代、この山々を越えて東国へ向かう旅は、想像を絶するものだったに違いない。 山岳地帯といえば、長野県の北アルプスや南アルプスのような3,000メートル級の山々を思い浮かべる。しかし、目の前に広がる関東山地は、せいぜい2,000メートル級でしかない。それにもかかわらず、山肌は鋭く切れ込み、近寄りがたい険しさを感じさせる。その理由は、山のでき方にある。アルプスは地殻変動によって大きく隆起した若い山脈だ。一方、この関東山地は長い年月をかけて雨や川に削られてきた山々である。谷は底が見えないほど深く刻まれ、絶壁や尾根が複雑に入り組む。標高は低くても、むしろアルプス以上に険しく感じられるのは、そのためなのだ。 山深い土地の生活と漁業組合の知恵 このような険しい地形の土地に、950人もの人が住んでいるということのほうが不思議になってくる。一体どういう生活をしているのか知りたくなる。村内の楢原集落に「旧黒澤家住宅」がある。江戸時代に代官所だった旧家のお屋敷が今も国指定重要文化財として残されている。受付で入場料の300円を払うと、人懐っこい感じのおじいさんが丁寧に説明を始めた。いつも、このような古い建物の資料館に入ると、たいてい親切にされる。こう言ってはなんだが、時間に余裕があるのと思ってしまう。この時も、来客は私ひとりだった。東京から来たと言えば、さらに喜ばれる。東京の皆さん、川遊びもいいですが、たまにはこういうところにも来てやってください。 このおじいさんも地元の人で、この集落の近くに住んでいるらしい。実際に村人がどうやって暮らしているのか、率直に聞いてみた。 「林業といっても、もう木材も売れなくなりましてね。なんせ、土地がないものだから、田んぼもなければ畑もわずか。昔は養蚕で儲かった時代もありましたが。貧しい土地なのです。漁業ですか?あれは、釣り券ですね。」 そう言われて、河原で何度も目にした「C&R区間」の看板を思い出した。キャッチ&リリース専用の釣り場だ。通常の釣り場では、いくら魚を放流しても、シーズン後半には魚がいなくなってしまう。しかし、C&Rであれば、魚が川に残り続ける。魚を食べたければスーパーで買えばいい。C&Rは体験を売るビジネスと言え、今時だ。サスティナブルでもある。 上野村漁業協同組合は、実は全国でも先進的な経営で知られている。なぜ、この山奥の小さな村に、そのような漁協が生まれたのだろうか。日本の多くの河川では、一つの川を複数の市町村にまたがる漁協が管理している。しかし神流川の源流域は、ほぼ上野村の行政区域と一致している。そのため利害調整がしやすく、村全体で危機感も共有できたことが、大胆で迅速な改革につながったという。 将軍の鷹狩りのための雛を育て、守ってきた土地 さらに座敷に進むと、「山中領の御巣鷹山」という展示があった。古地図には、現在の上野村の各所に「御巣鷹山」が記されている。御巣鷹山の名は、江戸時代、この地で幕府に献上する鷹の雛を育てていたことに由来する。当時、鷹は将軍にとって特別な存在だった。鷹狩は、戦乱の世が終わった後の武士にとって貴重な軍事演習であり、将軍の威光を示す場であると同時に、民情視察や治安維持の役割も担っていた。そのため、鷹の育成は幕府にとって極めて重要な事業だった。 なぜ、この地が御巣鷹として選ばれたのか。ここは鷹にとって理想的な深山幽谷だった。雛は人の気配を嫌うため、黒澤家などが管理を任され、村人の立ち入りは厳しく制限された。薪拾いやきのこ採りさえ許されなかったという。やがて幕府が終わると、その広大な山林は新政府へ引き継がれ、国有林や県有林となった。展望台から見た県有林には、こうした歴史が隠されていたのである。江戸時代には鷹を守るために守られてきた森が、今では首都圏へ良質な水を送り続ける神流川の源流を守っている。 その古地図を見ていて、「御巣鷹山」がひとつの山の名前ではないことがよく分かった。しかし、どこかで聞いたことのある名前だ。 「御巣鷹山……。」 私が思わずつぶやくと、それを聞いたおじいさんが、少しばつが悪そうに口を開いた。 「こんなところに、飛行機がね。」 そう、あの御巣鷹山だ。今からおよそ40年前の1985年。私は当時、中学生だった。日本航空機の墜落事故は、新聞の一面やテレビのニュースで連日報じられ、「御巣鷹山」という地名だけは、子どもだった私の記憶にも深く刻まれている。 日航機墜落事故の犠牲者の慰霊施設 その旧黒澤家住宅のすぐ近くの小高い山の上に、「慰霊の園」がある。日航機墜落事故の犠牲者を追悼するために作られた施設だ。事故があった8月に近い夏の日の夕暮れ時だ。慰霊塔の前には、ご遺族らしい家族の姿があった。私も線香を上げ、静かに手を合わせた。慰霊塔の背後には納骨堂の扉があり、その前に亡くなられた方々の「名碑」があった。520名の名前がそこに彫られてあった。 展示棟には、当時の事故の概要や遺品などが並べてあった。ドキュメンタリービデオの上映もやっているようで、部屋に入ると、先ほどの親子もいた。おそらく私と同じくらいの年齢の母親とその娘二人だった。年齢を考えると、その娘たちは事故を知らない。亡くなられたのは、母親のご両親か、ご親族か。約40分のビデオだったが、その娘さんは身動きひとつもせず、ずっと画面を見つめていた。 この事故は、当時、航空史上最悪の犠牲者を出し、その後の世界の航空安全の基準を根底から変える大きな転換点となった。私たちが今日、当たり前のように利用している「世界で最も安全な乗り物」は、多くの尊い犠牲の上に成り立っている。JALは事故の教訓を後世へ伝えるため、「安全啓発センター」を設立した。事故機の残骸や遺品、遺書などが展示され、航空関係者だけでなく、鉄道や製造業など他業界からも、安全管理を学ぶために多くの人が訪れているという。 事故によって生活が一変した村民たちのようす 私が、ビデオで印象的だったのは、当時の壮絶な救助活動とその後の混乱による村人たちの生活に関する生々しい証言の数々だった。わずか千人足らずだった村に数千人の警察や自衛隊、報道陣、医療関係者などが殺到し、静かな村の生活は一変した。それでも、道なき山へ分け入り救助活動を行い、救助隊への炊き出しなど、村人は全力でサポートした。救援本部となった村役場は、浄化槽がオーバーフローして川に汚物を垂れ流すしかなかった状況だったという。盆休みに予定されていた村の成人式は中止。救助隊用に小中学校も提供された。そういう日々が何ヶ月も続いた。 事故当時のことをもう少し知りたくて、上野村役場を訪ねてみたが、閉庁日でもあり、静かなものだった。役場の目の前では、川で遊ぶ子どもたちと釣り人の平和の光景があっただけだ。その小さな役場の建物に比べて、とても存在感のある銅像に目が止まった。事故当時に村長だった黒澤丈夫の銅像だ。ビデオでも生前の黒澤村長の姿があった。あの未曾有の状況下でありながら、冷静にインタビューに答える村長が印象に残っていた。 当時村長だった"黒澤丈夫”という人物 銅像の横の銘板に、黒澤村長の経歴と功績が細かに記されていた。まずそこで、村民の村長への尊敬の思いがひしと伝わってきた。そして、単にその時に村長だったというだけではないことを知った。 黒澤丈夫は、上野村の名家で生まれた。先ほど見た「黒澤家住宅」にまさしく住んでいた一族だ。そして、元海軍の零戦パイロットを務め、飛行隊長、航空隊参謀として最前線で戦ってきた。戦後は地元に戻り、10期連続で40年間に渡り上野村村長を務めた。2005年に91歳で退任するまで、全国最高齢の首長だった。 黒澤は、在任期間中、当時赤字だった村の財政を立て直し、平成の大合併の嵐が吹き荒れる中でも、周囲に流されず「合併しない宣言」を出して、小さな村の自立を守り続けた。「利便性や効率だけで合併すれば、周辺部の小さな集落は必ず見捨てられ、荒廃する」という考えを持っていたという。 未曾有の事故による混乱と村民の献身 黒澤丈夫の存在が知られるようになったのは、やはり日航機事故だった。考えてみてほしい。当時はまだ、ドローン、GPSどころか、携帯電話すらない時代だ。そこに、この付近の山に飛行機が墜落したらしいという情報しかなく、暗闇の深い山の中をどうすればいいのか。大きな飛行機が落ちたのだからすぐ見つかりそうなイメージがあるかもしれないが、先ほど山の上の展望台から眺めた一帯の深い山々は起伏が激しく、険しい谷が幾筋も迷路のように広がっている。鷹の雛を育てるのに適しているくらいに人を寄せ付けない山地だ。 そもそも上野村内に落ちたのかすら分からない。隣県の村々も情報交錯で混乱する中、黒澤は、国の要請を待たずしていち早く、村の猟友会のメンバーを集めて、自衛隊員を誘導して山に入るように指示を出した。その迅速な行動の結果、4人の生存者発見へとつながった。また、山林の木々を切り倒しての臨時のヘリポートもすぐに作らせた。本来なら、国の林野庁などの許可をもらわなければならない行為だが、通常なら数ヶ月を要するような手続きを待っていられない。「責任は全て私が取る」と断行した。このような黒澤の強力なリーダーシップは、元海軍航空隊参謀を歴任した経歴から来たものだ。航空隊で培った経験が、その冷静な判断を支えていたことは想像に難くない。 そのような黒澤の姿が、村民を動かし、過酷な救助作業を前に進め、駆けつけたご遺族に食事や宿を手配するなど、村全体の献身的な姿勢の指針となった。村民も、古くから、山の険しさや命の尊さを身をもって知っていた。山で迷ったり倒れたりする人がいれば、何をしてでも助けに行くという、山に生きる人々ならではの連帯感と道徳感が根底にあった。 日航機事故は、歴史的に悲惨な大事故ではあったが、そこが黒澤村長が治める村であったこと、深谷の山と共に暮らしてきた歴史のある村であったこと、これが救難救助の歴史のおける唯一の救いだったのかもしれない。元海軍航空隊の参謀として空を飛んだ黒澤丈夫が、四十年後には飛行機事故の救難救助を指揮することになる。その巡り合わせだけでも、不思議なものを感じる。しかも、この山は江戸時代には将軍家へ献上する鷹を育てる御巣鷹の山だった。空を舞う鷹を守ってきた山が、今度は航空史に残る事故の現場となった。私は、この偶然が単なる偶然には思えなかった。なお、日航機の墜落現場は、正確には「高天原山」に位置するが、ここを「御巣鷹の尾根」と名付けたのも黒澤だった。 黒澤村長が「豊かな村」を築き上げる 黒澤の功績は、それだけではない。神流川発電所の建設だ。これは世界最大級の純揚水式地下発電所で、御巣鷹山を挟んだ長野県側の南相木ダムとの高低差653メートルを利用して発電する巨大プロジェクトである。このような大規模事業は、環境問題や立ち退きなどから地元の反対で難航することが少なくない。しかし黒澤は、長年築き上げた村民との信頼を土台に、国や県、東京電力との調整をまとめ、計画を実現へと導いた。 発電所の稼働によって、上野村には年間約26億円もの固定資産税がもたらされた。当時の村税収入の約20倍という莫大な財源である。しかし黒澤は、その資金を安易なハコモノ行政には使わず、基金として積み立てる仕組みを整えた。その結果、現在の上野村は財政力指数で群馬県内トップクラスを誇り、一人当たりの一般会計予算も全国平均を大きく上回る。 ”山村留学”が小さな村の学校を存続させている 慰霊の園近くの斜面を上った見晴らしのよい場所に、「かじかの里学園」がある。1992年に開園した小中学生向けの山村留学施設で、これも黒澤村長時代に整備されたものだ。山村留学とは、子どもたちが親元を離れ、共同生活を送りながら地域の学校へ通い、自然豊かな環境で学ぶ制度である。人口1,000人にも満たない上野村で、小学校も中学校も存続していることを不思議に思っていたが、実は児童・生徒の約4割を山村留学生が占めているという。さらに、過疎地域支援制度を積極的に活用し、都会では難しいほど手厚い教育環境を実現している。発電所がもたらした豊かな財政は、単なるハコモノではなく、こうして次の世代への投資に生かされている。村を歩いて感じた上野村の豊かさは、黒澤丈夫が残した財政基盤の上に築かれていた。 少ない平地で暮らす人々の工夫 同じ集落にある小さな商店に入って、アイスを買って食べた。コンビニが普及するずっと前からある、昔ながらの何でも屋だが、新鮮な食料品などがきれいに並べられていた。その隣の乙父(おつち)集落は、旧十石街道の面影を感じる古い町並みだ。バイパスとなった国道から脇に入った狭く曲がりくねった道路沿いに家々が建ち並ぶ。しかし、ところどころ廃墟となっている空き家も見られた。どこへ行っても、神流川が目の前だ。川に迫り出して家が建っているような場所もある。山に挟まれたわずかな斜面では、果樹や根菜類が所狭しと植えられていた。これほど平地の少ない村で、人々が工夫を重ねながら暮らしてきたことがよく分かる。 帰りに、温泉に立ち寄った。浜平温泉の「しおじの湯」は渓流沿いにある。この温泉地の先に神流川発電所の上野ダムがあり、さらに奥に行けば、「御巣鷹の尾根」へ向かう登山道がある。しかし私は、その先へは行かなかった。露天風呂にゆったり浸かった。空を見上げると、夕暮れ近い青空に、たくさんの赤トンボが飛んでいた。すると、トンボたちは気流に乗って空高く舞い上がっていった。谷底にいても、空が近いなと思った。小さな村が、小さくなかった。

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    川の駅上野

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    上野村ふれあい館の神流川側に開けたデッキ

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    楢原橋付近の神流川

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    砥根平の吊り橋

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    神流川で遊ぶ子どもたち

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    魚が泳ぐようすが見えるほどの透明度

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    神流川の河原のマイカー

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    御荷鉾スーパー林道

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    御荷鉾スーパー林道 展望台

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    展望台から関東山地を一望

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    旧黒澤家住宅

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    黒澤家住宅の内部(2階は大きな養蚕部屋)

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    「山中領の御巣鷹山」の展示

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    慰霊の園 慰霊塔

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    納骨堂前の名碑

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    慰霊の園 展示棟

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    上野村役場

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    役場の前にある黒澤丈夫元村長の銅像

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    村立山村留学センター「かじかの里学園」

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    上野村立上野中学校

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    楢原集落の町並み

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    河原で見かける「C&R区間」の看板

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    乙父集落の町並み

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    わずかな隙間の土地を畑にしている

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    「鍾乳洞不二洞」は関東最大級の鍾乳洞

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    上野スカイブリッジは不二洞と一緒に観光できるスポットに

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    浜平温泉「しおじの湯」

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