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家いちば見聞録

関東平野を見渡す西側の拠点“高麗”から東京がどう見えるか

埼玉県日高市|都心から近く山と自然に囲まれた「渡来人の里」の町 先日、とある取材の関係で、中川寛子さんを日高市の高麗駅まで車で迎えに行く用事があった。中川さんは、住まいやまちづくりをテーマにする著名なジャーナリストで、テレビやウェブメディアなどでおなじみの方だ。たいてい、中川さんの行く先には面白いものがある。あまり知らなかった「高麗」について、興味が湧いた。 “高句麗”に由来する「渡来人の里」 それで、中川さんとの待ち合わせよりも前の時間で、付近を見て回ることにした。まず、高麗神社だ。地名を堂々とあしらった神社に何かあるはずという直感だ。行くと、広大な駐車場に驚いた。地域に親しまれていることがすぐ分かる。立派な山門には「高(句)麗神社」と掲げられていた。「句」は、見落としそうなくらい小さな文字だ。この地が朝鮮半島の古代国家「高句麗」に由来していることを、そこで初めて知った。どうやら、高麗(こま)は「渡来人の里」として有名らしい。私の教養レベルはその程度だった。 高麗神社のすぐ近くには、「聖天院勝楽寺」という寺もある。ここもまた、当時の渡来人に由来する場所だという。山を背にして連なる仏閣の建物群は、想像していた以上に壮麗だった。どこか京都の寺院を思わせるような風格がある。それが、のどかな田園風景の中に突然現れる。これは、ただ事ではない。高麗という土地について、もっと知りたくなった。 高麗川が大きく蛇行してできた「巾着田」 それでも、天気がよかったから、自然も楽しみたい。調べると「巾着田」が有名だと知った。変な名前だ。渡来人がつけた地名だろうかと思ったが、違った。この付近を流れる高麗川が大きく蛇行していて、その川に囲まれた田んぼが、上空から見ると巾着のように見えることからそう呼ばれるようになったらしい。田んぼが観光名所になっているのは珍しいなと思って行ってみたら、予想していたのとはまったく違う光景が広がっていた。 美しい河原と田園の光景が憩いの場に 広い玉石の河原。その向こうには切り立った崖のような森が続いている。それが360度ぐるりと取り囲み、その間には遊歩道が整備されていて、大きな木々から差し込む木漏れ日が、まるで山の中に入り込んだかのように心地よい。ここは秋になると、約500万本の曼珠沙華が咲き誇る全国有数の群生地となる。その季節には多くの観光客で賑わうらしい。駐車場やトイレなどの施設もよく整備されていて、広大な河原では家族連れがバーベキューを楽しみ、バードウォッチングをする人の姿も見かけた。 「巾着」の真ん中部分には、広々とした平地が広がっている。田んぼや畑であったり、季節によってはコスモス畑になったりするらしいが、この一帯は市民に開放された公園のような空間になっている。あぜ道の脇には水路が流れ、復元された水車小屋もある。先ほどまで見ていた高麗川沿いのダイナミックな光景とは対照的に、こちらは実に穏やかな農村風景だ。背後には里山が広がり、どこか懐かしい空気が漂っている。 昔も今も、巾着田は特別な場所 そして巾着の「くびれ」の部分には、一軒の立派な古民家が建っている。江戸時代末期から代々この地域の名主を務めた新井家の邸宅で、現在は国の登録有形文化財となっている。無料で見学できるほか、部屋ごとの時間貸しも行われており、落語会などのイベントにも利用されているそうだ。今ではのどかな風景が広がる巾着田だが、この古民家を見ると、かつてここが地域の政治や経済の中心地だったことがよく分かる。 そうやって巾着田を歩き回っていたら、中川さんとばったり出くわした。まだ待ち合わせ時間よりもずっと前だ。中川さんにとって、ここは「懐かしい場所」なのだという。都内で育った中川さんは、小学校の遠足で何度も巾着田を訪れたらしい。ちょうど目の前には、「遠足の聖地、巾着田」という看板が立っていた。なるほど、そういうことか。 移住してきた若者の思いとは 予定よりも早く待ち合わせができたので、ゆっくり昼食でもと思い、近くの和食店へ向かった。あらかじめグーグルで調べておいた店だ。ところが、行ってみると「予約で満席」だった。がっかりしていると、中川さんがぽつりと告白した。 「実は、さっきまで、この店のちょうど目の前で取材をしてました。」 目を向けると、森の中に大きなドーム型のテントが見える。古民家を改修したカフェのような建物もあり、明らかにただならぬ雰囲気を醸し出していた。 「ぜひ見てみたいですね」 そんな話になり、中川さんにとっては、まさかの“二度目の取材”が始まることになった。 この施設のオーナーは、僕よりもずっと若い人だった。挨拶をすると、家いちばのサイトをよく知っていた。こういう時、家いちばの肩書はとても便利だ。少なくとも「東京の不動産屋です」と自己紹介するよりも、ずっと距離を縮めやすい。そして彼は、自分の悩みや将来の構想についても率直に話してくれた。彼は長い放浪人生の末、大学で学び直し、この地にたどり着いた移住者だという。しかし、法規制などの壁もあり、まだ本当にやりたいことまでは実現できていないらしい。 施設の裏手には高麗川が流れ、遊歩道も整備されている。テントサウナで整った後、そのまま川へ飛び込むのが定番コースだそうだ。一方、トレーラーホームの中は落ち着いたインテリアでまとめられ、ゆっくりとくつろげる空間になっていた。遊び心にあふれた、とても魅力的な場所だった。私から見れば、十分にやりたいことを実現しているようにも見える。 渡来人の思いが“関東”を築く 想像をふくらませると、古代の渡来人も同じ気持ちだったのかもしれない。大陸で国を失い、日本へと逃れてきた高句麗人たち。はじめは関東各地に分散して住んでいたが、やがて朝廷によって一カ所に集められることになった。その時に選ばれたのが、この高麗の地だった。彼らの中には、優れた知識や技術を持つ者も少なくなかった。朝廷にとっては頼もしい存在である一方、元は王族や貴族、軍人でもある。中央から適度な距離を保ちながら、まだ開発の余地が大きかった関東を豊かにしてもらう――そんな思惑もあったのではないだろうか。 実際、高麗人たちは農業や土木、馬の飼育、製鉄など様々な分野で力を発揮したとされる。こうして関東の開発が進み、後の武蔵国や坂東武者の発展を支える土台のひとつになったとも言われている。もちろん、彼ら自身はそんな大きな歴史を動かしているつもりはなかっただろう。目の前の土地を耕し、水を引き、人が暮らせる場所をつくる。ただそれを積み重ねていただけなのかもしれない。しかし、その積み重ねが、やがて関東という地域を形づくり、日本の歴史を大きく動かしていったのである。 ひょっとすると、後に徳川家康が行った荒川や利根川の大規模な治水事業も、その遠い源流をたどれば、この地に渡ってきた人々が関東にもたらした土木技術や開拓の経験につながっているのかもしれない。もしそうだとすれば、今の東京を支える巨大な関東平野の姿も、その延長線上にあることになる。そんな想像をしていたら、あまりの壮大さに少し目がくらみそうになった。 「武蔵台団地」という現代の“開拓地”のようす 日をあらためて、巾着田の最寄り駅である西武線高麗駅の南側に広がる住宅地を歩いた。「こま武蔵台」団地だ。1970年代から80年代にかけて造成されたニュータウンである。もう50年近く経つ住宅街だが、それほど古さを感じない。街並みは東急田園都市線沿線の住宅地を思わせる雰囲気だ。調べてみると、開発者は東急不動産だった。西武線沿線だから西武グループによる開発だろうと思っていたが、そうではなかった。 田園都市線沿線と違うのは、周囲を山々に囲まれていることだ。郊外住宅地と別荘地の中間といった印象だろうか。ぐるりと一周してみたが、いわゆる空き家らしい放置された住宅は一軒も見当たらず、どの家もきちんと手入れが行き届いていた。これなら、住みたいと思う人が少なくないことも十分に想像できた。 衰退の足音から見出す希望 しかし、そんな整然とした街並みに対して、駅前は驚くほどひっそりとしていた。商業施設らしいものがほとんどなく、コンビニすら見当たらない。今どき、なかなか珍しい駅前風景である。日高市の都市計画図を調べてみると、駅周辺の大部分が市街化調整区域となっていた。これでは新しい建物を自由に建てることが難しい。どういう意図なのか詳しくは分からないが、住民は自動車で少し足を伸ばして大型商業施設を利用しているのだろう。 団地内には「こま武蔵台ショッピングセンター」もあるが、多くの店舗はシャッターを下ろしていた。ここにも“衰退”の足音が聞こえ始めている。ところが、その一角の空き店舗の中から聞こえてきたのは、リコーダーの音色だった。曲は、シベリウスの「フィンランディア」。のぞいてみると、ご婦人たちによるサークル活動のようだった。その隣の建物ではダンススクールが開かれていて、子どもたちが一生懸命に練習をしている。そこに、私は何か希望を見るような思いがした。 日和田山で、高麗の地形を感じ取る 日高市について語るなら、日和田山は欠かせない。合併時に市の名称を決める際に、「高」は高麗から、そして「日」は日和田山から来ているからだ。標高300メートル、片道1時間ほどで気軽に登れるトレッキングコースとなっている。中腹には、ちょっとした岩場をよじ登る箇所もある。この堅い岩盤が、巾着田周辺の高麗川の蛇行を生んでいる。そのことを肌で感じることができる。 関東平野を眺めながら 頂上に出ると、視界が一気に関東一帯に広がる。東京の高層ビル群が手が届きそうなくらいに近くに見える。私にはそんな関東平野が「理想郷」のように見えた。かつての渡来人たちは、この山からの景色をどう眺めたのだろうか。絶望なのか、希望なのか。それがどうであれ、今では世界有数の大都市圏となっている。何か誇らしい気持ちになって来た。 そこに、わいわいと会話しながら中年の夫婦が登って来た。 「なんだ、今日は霞んでるな。スカイツリーも見えやしない。」 さいたま副都心のほうを向きながら、ご主人が吐き捨てるように言った。 「見えますよ。そっちは、さいたま。」 黙っていられなかった。 「あらあ、大宮ってあんなに街だったの。」 奥さんは、冷静だった。 「東京は、もっと大きいのです。」 東京を、関東を代表して、毅然としてそう答えた。もちろん、私はどこぞの代表でもなんでもない。それでも、その日は何となく、高麗にお礼を言いたい気分だった。この豊かな関東平野が、実はここから始まったのかもしれないのだから。

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    「句」の字が小さく入った「高麗神社」の銘板

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    高麗神社内にある渡来人の展示

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    聖天院勝楽寺

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    巾着田の広大な河原

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    巾着田の森の中の遊歩道

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    巾着田の里山風景

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    「あいあい橋」は日本最大級の木製トラス歩道

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    巾着田の中を流れる水路

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    高麗郷古民家(旧新井家住宅)

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    高麗川沿いにある複合型ワーケーション施設「CAWAZ base」

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    CAWAZ baseのグランピング施設

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    高麗川沿いに遊歩道が整備されている

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    「こま武蔵台」団地の街並み

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    西武線「高麗駅」の駅前はのどかな風景

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    こま武蔵台ショッピングセンター

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    日和田山の清々しい登山コース

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    岩をよじ登るような箇所もある

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    日和田山の山頂付近「金刀比羅神社」からの眺め

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    日和田山の山頂

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