建物は「作品」なのか?建築家という存在
日本を代表するターミナル駅である東京駅は、高層ビルがひしめく大都心のありながら、レンガ造りの建築当時のままの威容を誇り、写真映えする観光スポットとしても人気です。この建物の設計をした辰野金吾という名前も聞いたことがあるのではないでしょうか。この大正時代の建築家の作品としてはこのほかに日本銀行本店など、現存する歴史建造物が日本各地に残されており、ドラマの撮影などでもよく使われるので、その写真を見れば見覚えのあるものばかりです。 辰野金吾(ウィキペディア) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE 建築家は「設計」をする人 しかし、辰野金吾が有名過ぎて、うっかりすると辰野金吾が建てたと勘違いもしそうですが、彼は建物の「設計」をしたのに過ぎません。実際の工事を担当したのはゼネコンの大林組なので、「大林組が建てた」と言えば間違いではありませんが、正確には、建物は「発注者」が建てるものです。発注者とはその建物を「建てよう」と企画し、それにお金を出す人です。東京駅の場合は、当時は国が発注者でした。 「安土城は誰が建てたか?」と聞かれたら、「織田信長」と誰もが答えるでしょう。実際には大工が建てたもので、信長は釘一本も触っていないでしょうが、あの当時としては破格な規模と装飾を施した壮麗な天守閣を「建てるぞ」と企画して指図したのは、紛れもなく信長の仕業です。 日本の建築家のはじまりは明治時代から さて、日本で「建築家」という職業が認識されたのは、明治維新以降で、西洋に追いつこうと海外から多くの設計者が招聘され、それらに学ぶような形で、建築の「設計」をする職業が広がりました。現在、国内で一般の人にも知られる建築家としては隈研吾や安藤忠雄、故人としては丹下健三や黒川紀章あたりではないでしょうか。 かつては「大工の棟梁」が建築家? 江戸時代以前は、建築家が存在すらしておらず、名前も残っていませんが、誰かが「設計」を行っていることには違いありません。歴史的に見ると、かつては大工の棟梁が図面を書いて、そのまま大工が建てるということが行われていました。今で言う「施工(工事のこと)」と設計が一体となったもので、ここに現在のゼネコン(総合建設会社)のルーツがあります。世界的に見ると、ヨーロッパのルネサンス期からすでにアーキテクト(建築家)という専門家の地位が認められるようになっています。15世紀のことです。 建築家(ウィキペディア) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AE%B6 遅れている日本の「設計」の地位 すなわち、日本の建築家の歴史が400年ほど遅れて始まっていることが、いまだに尾を引いているところがあり、日本で、設計というプロセスがやや軽視される傾向となっており、その根っこにこれら歴史の流れがあります。 「家を建てよう」と考える人の多くが「工務店」などの工事を行う会社にまず相談しています。一方で、設計を行う会社に相談する人は少数に留まっています。「設計と工事は別のもの」という考えが一般的な海外からすると、日本の現状がやや変わったものとなっていることが分かります。 工事をどこに依頼するか?(当社調べ) https://www.dropbox.com/scl/fi/kpc025e4grp4qd62awrcp/.jpg?rlkey=ermp9ly03qoccgpd9sxpvp43v&st=vqmrg9pl&dl=0 複雑化する建築プロセスで建築家の役割も変わっている しかし、時代も変わり、建築に関わる技術やプロセスも昔よりはるかに複雑になっています。すでに建築家が単独で設計できるものではなくなっています。最低でも構造設計者という別の専門家が必要で、ちょっとした規模用途になると設備設計者も必要です。そのほか、建設後の運営管理を行うチーム、あるいは長期的に建物の価値を維持向上させていくためのファイナンスチームなど、多様なプロフェッショナルが建築プロセスに関わる時代です。 建物は誰の「作品」なのか 大工の棟梁時代から受け継ぐ日本流の「ボトムアップ」なシステムが、案外今の時代にマッチしているとも言えます。こうやって考えると、今時では、自らが関わった建物を自分の「作品」と言い張る建築家は少なくなっているのではないでしょうか。あるいは、建築家以外の関わった多くの人たちが心の中で「自分の作品だ」とひそかに胸を張っているのかも知れません。 (家いちばコンサルタント 藤木哲也)
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