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家いちば見聞録

伊豆半島から突き出た小さな岬にひしめく温泉街“稲取”の風情を探る

静岡県東伊豆町|廃墟ホテルの先に見えた、小さな港町の暮らし 伊豆半島は、軽井沢と並んで国内有数の別荘地として知られている。中でも伊豆高原エリアは、広大な別荘地に加え、伊東温泉、大室山、城ヶ崎海岸などの著名な観光地を抱え、伊豆観光の中心地とも言える存在だ。その伊東市内を縦断する国道135号線をさらに南へ走り、赤沢温泉を過ぎた辺りから、伊豆の空気が変わる。洗練されたリゾート地の雰囲気が少しずつ薄れ、代わりに、古い温泉街特有の湿っぽさや生活感が濃くなってくる。 稲取岬の地形が生む独特の雰囲気 そこから、大川温泉、北川温泉、熱川温泉と、小さな温泉町が次々と現れる。いずれも、雄大な太平洋の水平線と、岸壁に荒々しく打ち砕かれる波しぶきが魅力で、地元の魚介も味わえる。そうやって目移りしているうちに、最後にたどり着くのが「稲取温泉」だ。 しかし、稲取だけは少し様子が違う。町が岬状の地形に押し込められているため、国道を走っていると、うっかり通り過ぎてしまいそうになるのだ。それだけに、一歩町の中へ入ると、独特の「取り残された感」がある。よくもわるくも、だ。 海沿いに残る巨大廃墟ホテル群の問題 稲取の温泉街の海沿いに出てみると、巨大な廃墟ホテル群が並ぶ光景に出くわす。廃墟マニアが喜びそうなくらいだが、建物の周囲には金網が張り巡らされ、「立入禁止(東伊豆町建設整備課)」の看板が掲げられていた。すでに税金滞納などによって差し押さえられ、行政管理となっているのが分かる。 この規模の建物群ともなれば、解体するだけでも数百億ほどの費用がかかるだろう。人口1万人ほどの小さな町にとっては、あまりにも重い負担だ。しかしその一方で、海辺の一等地に、まるで時代の終わりを象徴するかのような巨大廃墟が並び続ければ、町の景観やイメージにも大きな影響を与える。頭の痛い問題だ。 時代の名残りの「負の遺産」が全国各地にある こういった状況は、稲取だけでなく、全国各地で見られるものだ。昭和の高度成長やバブルの波に乗って乱立した巨大な施設群。ホテルやレジャーランド、公共施設もだ。それらが、今では「負の遺産」として各地に残されている。理由は単純だ。需要が減り、建物が老朽化し、後継者もいなくなった。空き家問題も、根っこは同じだ。 一方で、この問題の解決策も、実はそれほど複雑ではない。新しい運営者を見つけ、時代に合わせたマーケティングとリノベーションのプランを立てる。そして、その事業計画と収支計画に基づいて必要な資金を調達する。多少、権利関係が複雑になっていることもあるだろう。しかし、それも適切な専門家に依頼すれば、解決できない問題はほとんどない。 これは私の職業病なのだろう。気分転換の旅行に来ていても、ついこんなことを考えてしまう。 町内の一軒家ゲストハウスに泊まる さて今回は、懐かしい人を訪ねて、その人の宿に泊まることになっていた。それは、稲取港のすぐそばの町並みにある、普通の民家を改修してゲストハウスとして営業されているものだ。行ってみると、想像した以上に「普通」感があった。古民家というほどでもない、昭和時代の建物だ。それがいい。中に入ると、おしゃれなカフェのようにリノベーションされていた。少しDIYでやったような手作り感もあった。窓際のカウンターに座って庭を眺めていると、脇の路地をおばあさんがゆっくり横切っていった。不意に目が合い、思わず軽くお辞儀をする。ほっとする空気が、ここにはある。 懐かしい“若者”との再会 荒武さんが、後から入ってきた。もう10年ぶりくらいになる。当時、彼は都内の学生だった。私のほうは、ちょうど家いちばを立ち上げたばかりの頃で、一緒にやれる仲間を探していた。その時、SNSで、荒武さんら学生グループが稲取で面白い活動をしていることを知り、私は彼を訪ねてこの町までやって来たのだ。彼らは、町内にあった消防署跡の建物を町役場から任され、DIYで何か新しいことを始めようと悪戦苦闘していた。まだ右も左も分からない学生たちだったが、その姿には妙な熱気があった。結局、「これでは家いちばどころではなさそうだ」と感じて、その話は自然になくなった。しかし、その時の荒武さんの目の輝きだけは、不思議と今でも記憶に残っている。 あれから10年。ほかの学生仲間たちは、それぞれ別の道を歩んだ者もいるようだ。しかし、荒武さんはこの町に残り、10年間、ここに根を張り続けた。稲取で結婚もし、今では父親にもなっている。現在、荒武優希さんは合同会社so-anの代表社員となり、「湊庵」というブランドで宿泊施設を町内に複数展開している。そのほかにも、シェアキッチンやシェアオフィスの運営、イベント企画など、活動は多岐にわたる。 こう聞くと、何かバリバリの事業家のようにも聞こえる。しかし実際の彼には、そんな気配が微塵もない。静かな語り口と細やかな気づかいがあり、学生時代と変わらない、どこか「可愛らしさ」のようなものが残っている。ただ、彼のこれまでの苦労や工夫の話を聞いていると、その柔らかな物腰こそが、彼の最大の「武器」だったのかもしれないとも感じた。こういう田舎町で、空き家を使って何か新しいことを始めようとしても、地域から“よそ者”として警戒されてしまえば、なかなかうまくはいかない。しかし彼なら、おじいちゃんやおばあちゃんたちから、まるで孫のように可愛がられているのだろう。そんな光景が自然と頭に浮かんだ。 漁港を囲んで尾根伝いに広がる商店街 夜は、彼のなじみの地元の小料理屋に連れて行ってもらった。町で有名な魚介の旨い店だ。稲取は、小型船が並ぶ小さな漁港だが、金目鯛の1本釣りでは、国内でそのブランドとして名をはせている。すなわち、効率よりも職人技に磨きをかけてきた町だ。稲取の街並みは、その港を囲むように広がっている。ただ、面白いのは、商店街が海沿いではなく、小高い尾根の上を這うように伸びていることだ。平地がほとんどないため、こういう独特な町の構造になったのだろう。 食事の後、荒武さんに夜の稲取の街を案内してもらった。といっても、盛り場のような賑わいはほとんど見られず、ひっそりとしたものだ。その「尾根の商店街」を歩き、ぽつぽつとある飲み屋を見て回りながら、この町も未来のことも語ってくれた。そこには課題もある。 「近いうちに、小学校が統合されて、バスか電車で通うことになりそうなんです。」 小学校の統廃合が生む悪循環 ちょうどこれから子育てに入る荒武さん家族にとって、大きな悩みだ。子どもの人口が減れば、学校の統廃合もやむをえないものだ。しかし、学校がなくなれば、さらに若い世代が町を離れる。そして子どもが減り、さらに学校が不要になる。行政もそんなことは分かっている。しかし、ほかに選択肢がない。そして、この問題は、日本中で進行中のことだ。 荒武さんのような人が町にやって来て、いろんな活動を始める。すると町は少しずつ楽しく、賑やかになる。そして、そんな人の周りに、また新しい人が集まってくる。しかし、その好循環の裏側で、「教育問題」という別の悪循環も静かに進行している。頭の中がぐるぐるして、酔いが回ってきた。 雄大なススキ野高原の裏にある、はかなさ 翌日は、荒武さんのすすめで「細野高原」に登ってみた。ちょうどススキが見頃の時期らしい。もっとも、ススキなら箱根の仙石原にも何度も行ったことがある。「まあ、どんなものか見てやろう」くらいの気持ちだった。しかし、行ってみて圧倒された。見渡す限り、ススキ野原が広がっているのだ。遊歩道を歩いても歩いても、丘を越えた先に、さらに別のススキ野原が現れる。どこまで続いているのか分からない。そのスケール感に、だんだん感覚が麻痺してくる。脳内では、ずっと『風の谷のナウシカ』の音楽が流れていた。そうやって山を登っていくうちに、ふと眼下に海が現れた。ススキ野の向こうに相模湾、その先には伊豆諸島までがひとつの風景の中に収まっている。少し立ち寄る程度なら箱根の仙石原でも十分だろう。しかし、「ススキにどっぷり浸かりたい」というタイプの人には、細野高原はかなりおすすめだ。 実は、この細野高原の雄大さの裏に、はかなさもある。この土地は私有地になっていて、稲取地区特別財産運営委員会が管理をしている。町から無償譲渡されたという経緯だ。しかし、広大な高原の維持にお金もかかる。毎年の野焼きも欠かせない。そこで、ロケ地として貸し出すなどして、それら費用を捻出している。かつて、麓では稲作に向いていない土地が多く、その肥料としてススキが活用された。茅葺屋根の材料にも使われた。しかし今では、すでに70年代の3分の1程度まで高原が減ってしまっているらしい。また、頭の中がぐるぐるしてきた。 昔から受け継いできたものをどうやって残すか あらためて言いたいが、最初に見た「廃墟ホテル問題」は、私はそれほど難しいことだとは思っていない。しょせん、お金を使って失敗したものは、お金を使って何とかできる。しかし、小学校や細野高原の問題は、それとはまったく性質が違う。そこには、地域の暮らしや共同体、長い年月をかけて受け継がれてきた文化や風景が関わっている。そして今、それらが社会構造の変化によって、静かに消えようとしているのだ。こうした問題は、単に補助金や一時的な資金投入だけでは解決できない。もっと根本的に、地域社会そのものの仕組みを考え直さなければならない。いや、そもそも私たちは、その「時代の流れ」に抗うべきなのか。それとも、受け入れるべきなのか。まずは、その問いから議論しなければならないのだろう。 日本の3つの町で同時期に生まれた「雛のつるし飾り」 ところで、私が稲取に特別なシンパシーを感じるのは、懐かしい若者との再会だけではない。稲取の名物となっている「雛のつるし飾り」の存在も大きい。実は、私の生まれ故郷である九州・柳川も、「日本三大つるし飾り」のひとつとして知られている。もうひとつは山形県の酒田だ。発祥時期はいずれも江戸時代末期とされている。互いに遠く離れた土地で、ほぼ同時期に似た文化が自然発生的に生まれたというのは、不思議な縁を感じる。 柳川では、これを「さげもん」と呼んでいた。詳しいルーツはよく知らない。しかし、子どもの頃、祖母が鞠を手で巻いていた光景を今でも覚えている。家の中には、その「柳川まり」があちこちに転がっていて、人形などと一緒に吊るして飾られていた。それが、私にとっては当たり前の風景だった。今では、その「さげもん」も柳川を代表する観光文化のひとつになっている。 人と文化が交わる場所から生まれる地域社会 稲取、柳川、酒田。この三つの町の共通点を考えてみた。いずれも、水上交通によって発展した港町である。稲取は鎌倉時代から海上交通の拠点として栄え、江戸時代には伊豆石の積出港として発展した。柳川は有明海と筑後川水運の拠点、酒田は北前船交易の巨大港として知られている。港町とは、人と文化が交わる場所なのだろう。そしてそこには、経済的な豊かさだけでなく、人々のつながりや共同体も育まれる。つるし飾りという文化も、女性たちが一針一針縫いながら、技術や想いを共有できるような地域社会があったからこそ、生まれたものなのかもしれない。 そう考えて、この町を歩くと、むしろ地元の人間にでもなったような気分になる。道ですれ違うおばあちゃんが、自分の祖母のように見えてくる。帰り道で、八幡神社に立ち寄って、お参りをした。港からも近く、岬の中心に位置する場所だ。古くから漁師町を見守ってきたのだろう。ここを起点に、町が広がっていったかのように見える。この町は守られている。そう信じたいと思った。

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    稲取の海辺の夕日

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    廃墟ホテルとバリケード

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    営業中の高級旅館ホテルは繁盛していた

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    一軒家ゲストハウス「湊庵」

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    窓から庭が見渡せる室内

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    「かもめ食堂」の魚介料理

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    稲取港の漁船

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    宿の朝食でひものを焼いてくれる

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    稲取の街並み

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    稲取総社 八幡神社

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    坂道の多い町

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    稲取細野高原

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    ススキ野原の向こうに相模湾と伊豆諸島が見える

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    延々と広がるススキの高原

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