「東京を作った」甲州商人たちが故郷に贈るもの
山梨県峡東地域(笛吹市・山梨市・甲州市)|甲府盆地の果樹園が広がる風景 便利な時代になったものだ。ブログなどの記事を書く時に、AIを使って自分が書いた文章を丸ごとチェックしてもらっている。誤字脱字はもちろんのこと、分かりにくい表現の箇所も指摘してくれる。特に、私は熱が入り出すとやや文章が過激になってくる傾向があるが、そういう時も冷静に「ここはもう少し工夫した方が誤解がないですよ」とそっと教えてくれる。ありがたいものだ。 そんなやり取りを続けているうちに、ある日、AIからこんなことを言われた。 「その文章表現は、太宰治作品との共通性があります。」 実は、心当たりがある。元々は理系少年で、本をほとんど読まなかった私が、受験勉強のつもりで手に取ったのが太宰治の『富嶽百景』だった。そこからすっかり太宰にはまり、大学生になる頃までには代表作のほとんどを読んでしまった。私の文章の「学習データ」の大部分が太宰治なのだから、AIにそう分析されても不思議ではない。 山梨の生命線であった“御坂峠” そう言われると、山梨県の御坂峠にふと行ってみたくなった。富嶽百景の舞台となった茶屋がある。旧道の古く狭いトンネルを抜けると、視界が一気に開け、富士が目の前に見える。太宰が「風呂屋のペンキ絵」と揶揄した通りで、申し訳ないくらいに典型的な構図だ。この展望所の前には「天下茶屋」という古い建物があり、1階は食事処で、2階は「太宰治文学記念室」となっていて、太宰が2ヶ月間籠っていた部屋などが当時のまま残されている。青森・津軽にある太宰の生家「斜陽館」が有名だが、御坂峠には、目の前で太宰が悶々としながら原稿用紙に向かう姿が目に浮かんでくる生々しさがある。 今は国道の御坂トンネルがあるため、旧道となった御坂峠は驚くほど静かだ。しかし、古くは日本武尊の時代から甲斐国への入口となり、長い間、この地の大動脈として機能してきた。山梨は四方を山に囲まれた内陸国である。海に面した駿河国から塩や海産物を運ぶにも、この峠は欠かせなかった。さらに江戸から明治にかけては、甲州商人たちが絹や甲州ぶどうなどの特産品を背負い、この峠を越えて横浜へ向かった。当時、甲州街道の笹子峠は牛馬で越えるには険しすぎたため、多くの商人は南回りの御坂路を選んだのである。御坂峠がまさしく山梨の生命線だったと言える。 紛らわしい地名となっている”山梨”と“甲州” その山梨だが、県庁所在地は甲府市であり、一方で「山梨市」という人口約3万人の小さな市も存在する。そのため、「山梨」と言った場合に県全体を指すのか、それとも山梨市を指すのか、少し紛らわしい。そこで県全体を表す言葉として、今でも「甲斐」や「甲州」という呼び名が広く親しまれている。四方を山々に囲まれた甲府盆地を中心とする地形は、一つの文化圏としてのまとまりを生み、さらに武田氏が長くこの地を治めた歴史も、その意識を育んできたのだろう。 それなのに、平成の大合併で「甲州市」という名の市が誕生した。これで「山梨県」と「山梨市」に加え、「甲州」と「甲州市」という、少し紛らわしい組み合わせまで生まれてしまった。さらに残念なのは、「勝沼」という市町村名がなくなってしまったことだ。勝沼ワインで全国的に知られた地名だが、「勝沼へ行こう」と思って地図を広げても、今ではどこにあるのか少し分かりづらい。もちろん住所としては「甲州市勝沼町」の名が残されているのだが、以前のような存在感は薄れてしまった。 地名ブランドの大切さ もちろん、合併時の名称を決める難しさは理解している。それぞれの自治体に歴史があり、住民の思いもある。しかし、長い年月をかけて築き上げた地域ブランドを十分に生かせなくなるとすれば、それは少し惜しい気もする。知名度というものは、一度失えば取り戻すのに莫大な時間と費用がかかる。企業がブランドを築くのに膨大な広告費を投じることを考えれば、何百年も受け継がれてきた地名そのものが、地域にとってかけがえのない資産であることがよく分かる。 同じように、石和温泉で知られる「石和町」も、平成の大合併で姿を消し、現在は笛吹市の一部となっている。市名の「笛吹」は、市内を縦断する笛吹川に由来しており、名称としてはもっともだ。ただ、石和についてはJR中央線の「石和温泉駅」が今も残っているため、地図を見ても「石和」がどこなのかは比較的分かりやすい。勝沼も、中央自動車道の「勝沼インターチェンジ」があるおかげで、まったく見失うことはなさそうだ。 「峡東」か「東山梨」か このやや分かりづらくなっている山梨市、甲州市、笛吹市の3市を合わせて「峡東(きょうとう)」地域と地元では呼ぶそうだ。天気予報の気候区分でお馴染みだし、公共施設の名称などでよく使われている。しかし、県外の人にはあまりピンと来ない名称ではないだろうか。勝沼や石和など分かりやすいものを分かりづらくしておきながら、その分かりづらい3市をまとめても、さらに分かりづらいという、こう説明している自分もよく分からなくなってきた。 実は、もともとは「東山梨郡」という地名があった。現在の山梨市と甲州市の大部分、そして笛吹市の一部は、この郡に属する町や村だった。それらが平成の大合併を経て三つの市となり、現在の姿になっている。私の勝手な感想だが、「峡東」よりも「東山梨」と呼んだほうが、県外の人には位置関係が伝わりやすいように思う。「山梨県の東側なんだな」と、一度でイメージできるからだ。 合併によって消えた地名たち 少し、地名の話が長くなったが、似たような話は全国にある。例えば、「大曲花火」で全国的に有名な大曲市は、現在は合併によって「大仙市」の一部となっていて、大曲の名称は駅名には残されたが、「大曲市」を地図で探しても見つからない。埼玉県の大宮市と浦和市が合併して、「さいたま市」になってしまった。元浦和市民が黙っていないかもしれないが、私は歴史ある地名という意味では、「大宮市」という名前が残ってもよかったのではないかと思う。氷川神社に由来する、平安時代から続く由緒ある地名だった。 それでも、明治時代になって、江戸を無理やり「東京」と呼び始めて、今では何の違和感もなくなっているわけだから、いずれ時が解決するのだろうか。 甲府盆地の果樹園が広がる光景 さて、この「東山梨エリア」を見渡せる場所がある。勝沼にある「ぶどうの丘」だ。甲州市が運営する複合観光施設で、ホテルや温泉、レストランなどが揃っている。夕焼けの黄昏時から夜景に変わる頃、都会の街の灯とはまた違った光景を見ることになる。特に大きな街の中心のネオンが輝くわけでもなく、盆地から山際にかけていっぱいに果樹園が広がり、それに寄り添うように民家がぽつぽつと建ち並ぶ光景だ。それが夜景になると、盆地の「お椀」のような地形が広がっているから、プラネタリウムをひっくり返したように見える。この地域独特の景観だと思った。これを見ていると、こまかな地名の問題など、どうでもよくなる。 空き家率ワーストの山梨県の土地事情 この地域は、稲作に向いていない土地だった。水がたまりにくい扇状地で、雨も少ない。しかし、その代わりに日照時間が長く、フルーツ栽培には理想的な環境だった。しかも、果樹園は田んぼに比べて面積あたりの収穫高が圧倒的に高い。ただし、その分だけ手間がかかり、実がなるまで何年も待たなければならない。それでも、果樹は手作業が中心のため、大型の耕作機に頼らず、斜面や狭い土地でも育てることができる。だからなのだろう。この地域では、荒れたまま放置されている土地をほとんど見かけない。宅地と宅地のわずかな隙間にまで果樹が植えられ、土地を一坪たりとも無駄にしないという強い意思すら感じられた。 それなのに、山梨県は全国でもトップクラスの空き家率を記録している。その数字だけを見ると、土地が荒廃しているような印象を受ける。しかし、実際に歩いてみると、そのイメージとはまったく異なる風景が広がっていた。私の考えでは、この地域では土地そのものの価値が非常に高いため、たとえ建物が空き家になっても土地まで手放すことは少なく、そのまま果樹園などとして活用し続けているのではないだろうか。そう考えると、所有者にとっては「空き家」という感覚よりも、「果樹園付きの土地」という意識のほうが強いのかもしれない。もしそうであれば、空き家率という統計だけでは、この地域の土地利用の実態を十分に表していない可能性がある。 「鉄道王」根津嘉一郎の登録有形文化財住宅 そんな、のどかな果樹園風景が広がる中で、ひときわ異彩を放つ立派な屋敷が目に入った。これはただものではないとすぐに感じ取った。「根津記念館」と表札が出てきた。最初は、その根津が誰なのかも知らなかったが、それがあの東京・青山にある根津美術館の名前の人物だと知った。旧根津家住宅は、国登録有形文化財で、当時の根津家の隆盛ぶりを偲ばせるものだ。 根津嘉一郎は、明治から昭和初期にかけて日本の産業界を牽引した大実業家であり、政治家だった人物だ。特に、東武鉄道の再建を手がけ、「鉄道王」とも呼ばれ、根津財閥を築いた。それは、「甲州財閥」の一派でもあった。 日本の都市インフラを築いた甲州財閥のメンバーたち 甲州財閥については、この施設の展示棟で詳しく常設展示されている。そこに並ぶ主要メンバーの名前を見ると、あらためて驚かされる。リーダー格の若尾逸平は、現在の東京電力につながる東京電燈に深く関わった人物である。ほかにも、阪急電鉄の創始者であり、鉄道と沿線開発を組み合わせた現代的なまちづくりの基礎を築いた小林一三、日本初の地下鉄を開通させた早川徳次の名前もある。まさしく、日本の都市インフラそのものを形づくった人物ばかりだ。 その中でも特に、若尾逸平は東京株式取引所の筆頭株主となり、当時の日本の金融市場に絶大な影響力を持っていた。では、なぜこれほど多くの山梨出身者が、首都東京のインフラや金融を動かすまでになったのだろうか。 首都東京を動かした甲州財閥の才覚 歴史を振り返ると、その背景には、耕地が少ない山岳地帯という厳しい土地条件があった。人々は生き残るために農作だけに頼らず、行商によって商才を鍛えてきた。明治期に入ると、その商才は生糸貿易で大きく花開き、そこで得た莫大な富が、株式の買い占めや鉄道・電力への投資に向かった。そこに、甲州出身者同士の強い結束力が加わった。若尾が語ったという「将来性があるのは乗り物と明かりだ」という先見も、その象徴である。この精神は、若き根津嘉一郎にも受け継がれていった。 故郷に痕跡を残さなかった甲州商人 しかし、山梨県出身の甲州商人たちによる華々しい活躍とは裏腹に、現在のこの地はかなりひっそりとしている。三井や三菱などの四大財閥と比べると、甲州財閥の知名度も高いとは言えない。甲州財閥は、一族に富を集中させるというより、同郷の実業家たちが集団として力を発揮した存在だった。そのため、世代交代によって郷土意識が薄れていくと結束力も弱まり、金融恐慌などの影響もあって次第に表舞台から姿を消していった。 同じ商人集団としては「近江商人」も有名で、近江八幡には今も豪商の屋敷街が残っている。一方で、甲州商人の故郷には、それに匹敵するような街並みは見当たらない。行商をルーツとする彼らは、一度東京や横浜に出ると、会社も自宅もそのまま移してしまい、富が山梨の街並みとして還元されにくかったのかもしれない。その意味で、根津家の屋敷は、甲州商人の記憶を今に伝える数少ない痕跡の一つだった。 中心地"石和温泉”の繁栄と再生 この3市の中で最も市街地らしい雰囲気なのが、石和温泉郷周辺だ。そのJR石和温泉駅前には巨大なイオンがあるものの、目立った商店街は見当たらない。もともとは1960年代、温泉の突然の噴出をきっかけに急速に発展した街である。その後、バブル絶頂期には日本屈指の歓楽街として大いに賑わったという。しかし、今ではその面影もわずかに残る程度だ。むしろ、かつての歓楽街というイメージを払拭しようとしているかのようで、残る温泉宿も家族連れや夫婦が気軽に泊まれる、落ち着いた温泉地へと姿を変えていた。 しかし、食事をしようにも店があまり見当たらず、結局チェーン店に入ることにした。それから予約していた宿の住所に着くと、どう見てもラブホテルだった。ひと目を気にしながら、おそるおそる車を停めて建物に入る。すると間違いではなく、ちゃんとビジネスホテルのフロントがあった。それでも部屋に入ると、やはり元ラブホテルそのものだった。その代わり、ベッドも浴室も驚くほど広く、宿としては意外なほど快適である。かつての役割を終えた建物が、新しい姿で使われ続けている。そんな割り切りの良さも、この土地らしいのかもしれない。 リニアが甲州商人からの"お返し”となるか 今度は、甲府盆地を南側から見渡せる場所へ向かった。笛吹市南部の花鳥山一本杉公園は、「リニアの見える丘」として知られている。展望台に立つと、トンネルを抜けて一直線に伸びるリニア線の高架橋が眼下に見えた。駐車場では、黒い大型バイクの脇で景色を眺めていた男性が、私を見るなり声をかけてきた。どうやら地元の人らしい。 「東京から来たの。リニアは今日は見れないよ。でも、たまに見学会をやっていてね。地元には優先して案内が来るんだよ。」 その口ぶりは、どこか誇らしげだった。リニアの山梨県駅が開業すれば、品川までは30分もかからないという。かつて「乗り物と明かり」の将来性を見抜いた鉄道王・根津嘉一郎も、さぞ驚くことだろう。甲州商人たちが築くことに大きく貢献した東京は、今なお留まることなく発展を続け、その巨大な都市の欲望は、飛行機や新幹線だけでは満たされなくなった。果たしてリニアは、かつて甲州商人たちが東京へもたらした繁栄を、今度は山梨へ返してくれるのだろうか。それにしても、リニアの駅名も、また悩ましいことになりそうだな。どうか、分かりやすくしてほしい。
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