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家いちば見聞録

砂丘地帯から工業都市へと生まれ変わった“神栖”の奇跡

茨城県神栖市|鹿島工業地帯が育んだ緑豊かなロードサイド都市 東関東自動車道を、成田空港より先まで走ったことがある人は、それほど多くないかもしれない。現在の終点は霞ヶ浦の下流にある潮来インターだが、間もなくその先も延伸され、水戸まで高速道路で結ばれる予定だ(2026年8月現在)。成田を過ぎると、人里離れた丘陵地帯がしばらく続く。しかし、ある場所で突然、視界が大きく開ける。利根川と、その流域に広がる広大な平野。夏には、瑞々しい水田が一面に広がり、日本有数の穀倉地帯らしい豊かな風景が目に飛び込んでくる。ところが、その田園風景の右手前方へ目を移すと、地平線には何本もの煙突が立ち並んでいる。田園と工場。このあまりに対照的な風景に、思わず不思議な気持ちになった。あの煙突群こそ、日本有数の「鹿島臨海工業地帯」である。 全国でも知られた“鹿島臨海工業地帯”のある神栖市 鹿島臨海工業地帯については、小学校の授業でも習うくらいによく知られている。それに、鹿島アントラーズや鹿島神宮など、「鹿島」という地名も全国的にお馴染みだ。ところが、工業地帯の位置を地図で確かめてみると、その大部分は「神栖(かみす)市」にある。いっぽうで、「鹿嶋市」という市も存在するが、よく見ると漢字が少し違う。神栖市と鹿嶋市は、何が違うのだろうか。これは、実際に行って確かめてみるしかない。 以前、隣の潮来市の小料理屋で、おかみと世間話をしていた時のことだ。 「買い物は、ほとんど神栖に行っています。」 そんな一言が、ずっと頭に残っていた。地図を広げてみても、神栖の中心がどこなのかよく分からない。そこで、自分が無意識に鉄道の駅を探していることに気づいた。街の中心は駅の周辺にあるものだと思い込んでいたのだ。しかし、神栖市には駅がない。調べてみると、人口は約9万人。隣の銚子市の約5万人を大きく上回る。銚子はJR銚子駅を中心に市街地が広がり、街の構造がひと目で理解できた。しかし神栖には、その「駅前」が存在しない。どうやら神栖は、街のつくられ方そのものが、他の都市とは違うようだ。 工場だけの街ではない、農地改良の歴史 ひとまず、地図で見つけた「神栖中央公園」を目指すことにした。街の中心に近い場所だろうと考えたからだ。潮来インターを下りると、しばらく田園風景が続く。やがて少し大きな橋を渡った。利根川かと思ったが違った。その支流の「鰐川」だった。橋のたもとには、釣りを楽しむ人たちが大勢いた。小さな公園のようになっていたので立ち寄ってみると、「未来を創る大地」と刻まれた大きな石碑が目に入った。公園の規模からすると、少し驚くほど立派な碑だった。 説明を読んでみると、この地域はかつて水害に悩まされており、地元住民や県、行政が力を合わせて土地改良を進めてきた経緯が記されていた。最後は「永く後世に伝える」という言葉で締めくくられており、この土地への誇りも感じられた。ここのような圃場整備事業は全国各地で行われてきたが、実際には住民の合意形成が最も難しい。土地を交換し、一時的に農業を止めることもあるため、地域全体の危機感や将来への思い、そして結束がなければ実現しない事業である。そう考えると、目の前に広がる実り豊かな田園風景は、自然が与えてくれたものではなく、先人たちの努力によって築かれたものだったのだ。そして、ふと考えた。この土地を大きく変えたもう一つの出来事──鹿島臨海工業地帯の誕生も、同じように人の手によって築かれた歴史なのではないだろうか。 典型的なロードサイドの風景 そんなのどかな風景を抜けると、国道124号線との交差点付近から景色が一変した。目の前に広がっていたのは、典型的なロードサイドの風景だった。全国チェーンのファーストフード店やドラッグストア、家電量販店、ホームセンターなど、ありとあらゆるブランドの看板が途切れることなく並んでいる。しかも道路は片側2〜4車線と広く、ゆったりとした歩道まで整備されている。道路沿いには広大な駐車場を備えた大型店舗が次々と現れた。ここに来ればなんでも揃う。すぐに納得した。 ロードサイドの中心に建つ高層ホテル 中でも、一際目を引いたのが高層ホテルだった。ロードサイドでは全国チェーンのホテルを見かけることは珍しくないが、ここに建っていたのはそういうビジネスホテルではない。「アートホテル鹿島セントラル」という、街のランドマークともいえる建物だった。中へ入ってみると、大きな吹き抜けのアトリウムにカフェやレストランが並び、上階には宴会場の案内も見える。地方都市のホテルというより、新宿副都心にあるシティホテルのような雰囲気だ。人口9万人の地方都市に、これほどの規模のホテルがあることに驚いた。 しかし、その歩みは順風満帆ではなかった。このホテルは1970年代、第三セクターの鹿島都市開発株式会社によって建設された。2002年のFIFAワールドカップ日韓大会に合わせて、高さ約80メートルの新館を増築したものの、その100億円を超える投資が重荷となり、債務超過へと転落する。さらにコロナ禍が追い打ちをかけ、2年前には民間企業へ事業譲渡された。現在は数十億円規模のリニューアルが行われ、再び街のランドマークとして営業を続けている。一度は経営に行き詰まったものの、廃業して巨大な廃墟になることはなかった。地方では、街の象徴だった大型ホテルが閉館し、そのまま長年放置される例も珍しくない。その意味では、神栖は民間への事業承継という形で、新たな道を選んだと言えるだろう。 ホテルの1階の一角は、バスターミナルになっていた。空調の効いた待合室では腰もかけられるようになっていて、とても快適だ。東京駅行きの高速バスは、日中でも1時間に3本から6本も運行されている。これなら、下手な鉄道駅よりも便利かもしれない。ちょうどお盆の帰省シーズンだったこともあり、スーツケースを引いた利用客が次々とやって来る。到着したバスは、ほぼ満席だった。その様子を見ていて、ようやく気づいた。神栖には鉄道の駅はない。しかし、このホテルが駅の役割を果たしているのだ。だからここは、単なる民間ホテルではない。街の交通、商業、宿泊の機能を一か所に集めた、神栖の「中心」として計画された場所なのである。 広大な防災公園と豪華なアリーナ その少し先、同じ国道124号沿いに神栖中央公園がある。十分な駐車場を備えた、市内でも中心的な公園だ。広大な芝生広場には、「ふれあいの丘」と呼ばれる築山があり、中学生くらいの部活動の生徒たちが歓声を上げながら駆け回っていた。案内板を見ると、「鹿島開発記念防災公園整備事業」と書かれている。単なる憩いの場ではなく、防災機能を備えた公園として整備されたものだった。 公園の奥には、「かすみ防災アリーナ」というガラス張りの立派な施設が建っている。これも人口9万人の地方都市とは思えない規模だ。メインアリーナはB.LEAGUE公式戦にも対応し、2階にはプールやフィットネスジムまで備えている。しかも、市民なら2時間のプール利用で550円と格安だ。ガラス越しには、初老の女性が静かにエアロバイクをこいでいた。一方、アリーナでは地元の中学生たちが練習試合に励んでいる。豪華な施設でありながら、特別なものではなく、市民の日常の中に溶け込んでいる。その光景が、とても印象的だった。多くの人がこの街に住めたらいいなと思うのではないだろうか。 こんな立派な施設を建てて、本当に税金は大丈夫なのだろうか。そう思う人も多いだろう。しかし、それが神栖市なのである。鹿島臨海工業地帯から生まれる莫大な税収に加え、多額の基金もある。さらに、建設費には社会資本整備や石油貯蔵施設立地対策などの国の交付金も積極的に活用してきた。もともと国の研究施設だった土地を取得した経緯もあり、有利な条件で整備が進められたと考えられる。 もっとも、この防災アリーナについては、市民から「豪華すぎる」との声も上がり、住民投票にまで発展したという。完成後も年間5億円を超える維持管理費がかかる。館内を歩いていると、それに対する努力も見えてきた。ガラス張りの外壁は、窓ガラスの一部に汚れが残っている。おそらく清掃回数を抑えているのだろう。また、館内には大型の送風機が置かれ、空調費を節約している様子もうかがえた。潤沢な財政があるからといって、無尽蔵にお金を使っているわけではない。豊かな街だからこそ、その豊かさを維持するための工夫も続けているのだと感じた。 工場用地を提供してきた人々の歴史 公園の入り口近くで、「時の奇跡」と刻まれた石碑を見つけた。そこには、「神栖町鹿島開発用地提供者名」として、およそ2,500人もの名前が刻まれていた。これだけ多くの人々が、鹿島開発のために自らの土地を提供したのである。土地を手放すということは、単に資産を失うことではない。代々暮らしてきた土地を離れ、生活そのものを変えることでもある。その決断がどれほど重かったかは、想像に難くない。それでも、数千人もの人々が協力した。まさに「時の奇跡」という名にふさわしい。いったい当時、この地で何が起こっていたのだろうか。 アートホテルの裏手には、「神栖市歴史民俗資料館」という小さな建物がある。ちょうど夏休みということもあり、「恐竜展」が開かれ、子どもたちで賑わっていた。しかし、その隣の展示室では、鹿島開発以前も含めた神栖の歴史が静かに紹介されていた。そこで初めて、この土地が工業地帯になる以前の姿を知ることになった。江戸時代後期から明治にかけて、この地域はたびたび深刻な水害に苦しめられていた。その原因は、徳川家康以来の「利根川東遷」にあった。江戸の街を洪水から守るため、本来は東京湾へ流れていた利根川を、長い年月をかけて鹿島灘へ流れるよう付け替えたのである。その結果、この地域に水が集中し、たび重なる洪水に見舞われるようになった。地元の名主・中館広之助は、幕府へ何度も命がけで嘆願書を提出した。しかし、その願いは聞き入れられなかった。そこで広之助は、自ら私財を投じ、砂丘を掘り抜いて太平洋へ直接流す放水路を築こうとした。 水害と闘ってきた教訓を生かして作られた鹿島港 これが「居切掘削」である。長い歳月をかけて完成したものの、今度は海水が逆流してしまい、事業は失敗に終わった。明治時代のことである。しかし、この失敗は無駄にはならなかった。戦後、この地に工業地帯として掘込み式の港を築く計画が持ち上がると、放水路として掘られた居切の場所がそのまま候補地となる。そして、広之助が苦しめられた「海水の逆流」という教訓も、そのまま港の設計に生かされることになった。鹿島港を上空から見ると、太平洋から入った港が大きくY字型に左右へ広がっている。その特徴的な形には、海水の逆流を防ぐという先人たちの失敗と学びが刻まれているのである。鹿島臨海工業地帯が、現在の鹿嶋市よりも神栖市側に寄っている理由も、ここでようやく腑に落ちた。すべては、この居切掘削が現在の神栖市で行われたことに始まっていたのである。 このように、この地域は長い間、水害と闘ってきた土地だった。もちろん、利根川は水運という大きな恵みももたらした。しかし一方で、この一帯は広大な砂地でもある。ほとんど砂丘と言ってよい土地で、農業には決して恵まれた環境ではなかった。鉄道も通らず、長らく陸の孤島のような存在だった。ところが、その「不利な条件」が、戦後になって一転して最大の強みとなる。広大な土地をまとまって確保しやすいこと。工業用水となる豊富な水資源があること。そして、港を掘り込む際にも、硬い岩盤ではなく砂地盤だったため、大規模な掘削工事に適していたこと。人が住むには不便だった土地は、工業都市を築くには理想的な土地だったのである。 工業地帯の港を見渡す“港公園”からの壮大な眺め 場所を移し、鹿島港のY字型に分かれる付け根部分にある「港公園」へ向かった。ここは鹿島港全体を見渡せる展望地として整備されている。シンボルでもある展望塔に上ろうとしたが、あいにく改修工事中だった。しかし、私はむしろ安心した。展望施設は造ることよりも、維持し続けることの方が難しい。全国には維持管理費を捻出できず、閉鎖や撤去に追い込まれた展望台も少なくない。その点、この展望塔は今もきちんと手を入れられている。一方で、公園は静かだった。私以外に来園者はおらず、少し閑散としている。もっとも、展望塔に上らなくても、港全体を眺めるには十分だった。それにしても、目の前に広がるこの巨大な港が、もともとは何もない陸地を掘り込んで造られたのだと思うと、そのスケールの大きさに圧倒される。 港公園から見下ろした場所には、小さな港があり、海上保安庁の船などが静かに停泊していた。その一角に「待合室」と書かれた建物があった。暑さもあって、中で少し涼むことにした。中にはテーブルと椅子が並び、待合室としては十分な広さがあったが、利用者は誰もいない。売店にはお菓子が少し並んでいるだけで、どこかのんびりとした雰囲気だった。アイスケースがあったので、ガリガリ君のソーダ味を一本買うことにした。というより、それくらいしか目ぼしいものがなかった。 聞いてみると、以前は「ユーリカ」という見学船がここから出航していたが、現在は運休中だという。アイス代を払いながら、 「もう船は出ていないのですか。ひまでしょう。」 と声をかけると、売店の女性は、運休に至った経緯や再開の見込みについて丁寧に話してくれた。 「どちらから来られたのですか。」 と聞かれ、東京からですと答えると、乗船者に渡しているというお土産用のバッグをくれた。中には、見学船「ユーリカ」のペーパークラフトセットが入っていた。 茨城県知事だった“岩上二郎”の熱意が国や企業を動かした 公園へ戻る途中、また一つ、大きな石碑が目に留まった。「岩上二郎先生顕彰之碑」と刻まれている。今日だけで、いくつ石碑を見ただろう。今度は、一人の人物を顕彰する碑である。 岩上二郎は、当時の茨城県知事だった人物である。45歳の若さで知事に就任し、その後1975年まで4期16年にわたって県政を担った。筑波研究学園都市の誘致でも知られるが、鹿島臨海工業地帯の実現もまた、岩上の大きな功績だった。当初、国は鹿島開発を「無謀な夢物語」と一蹴したという。しかし岩上は諦めなかった。世界中の港湾や工業地帯を徹底的に研究し、自ら開発構想を書き上げ、国を説得していった。つまり、鹿島開発は国から与えられた計画ではない。岩上二郎が最初に描いた構想を、国の事業へと育て上げたものだったのである。さらに計画が動き出すと、自ら財界人や進出企業のトップを訪ね歩き、熱意をもって協力を求めた。その結果、東京電力や住友金属をはじめとする日本を代表する企業が、次々と進出を決断した。一人の知事の構想と行動力が、日本有数の工業地帯を現実のものにしたのである。 岩上知事が描いた壮大で先見的な都市計画 そして、最大の難関は、地元住民の理解を得ることだった。約2,500人もの土地所有者が用地を提供したことを考えれば、その背後には粘り強い説明と交渉があったに違いない。しかし、それだけでは人は動かない。私には、その根底にあったのは岩上二郎が描いた明確な未来像だったように思える。岩上は、単に工場を誘致することを目指していたのではない。当時、建設されたばかりだったブラジルの新首都「ブラジリア」にも着想を得ながら、何もない広大な土地だからこそ、既成概念にとらわれない未来都市を一から設計しようと考えていた。そこでは、工場だけが並ぶ工業地帯ではなく、そこで働く数万人の労働者とその家族が快適に暮らせる都市が構想されていた。道路網、住宅地、公園、そして近代的な農業地帯を一体として整備する壮大なマスタープランである。 その中心軸となったのが、先ほど走ってきた国道124号線である。広い道路とロードサイド型の商業集積を見ると、岩上は自動車社会の到来を見据えた都市づくりを考えていたのではないかと思う。少なくとも、街の中心を鉄道駅に置くというそれまでの都市づくりの定石とは異なる発想を持っていた。その代わりに、人やビジネスが集まる拠点として整備されたのが、先ほど訪れたアートホテル鹿島セントラルだった。多くの都市のロードサイドは、駅前商店街を中心に発展した街が、自動車社会の到来とともに郊外へと商業機能を広げた結果として生まれたものである。しかし神栖は違う。最初から自動車交通を前提に都市が設計され、ロードサイドを街の中心として計画的に整備した、日本でも珍しい都市なのである。 工業と農業の両立は「夢物語」ではなかった 岩上が生涯にわたって掲げた理念が、「農工両全」である。工業だけに依存する街はいずれ行き詰まる。だからこそ、近代的な農業も同時に育てる。その両輪があってこそ、持続可能な都市になるという考え方だった。そう考えると、用地を提供した多くの農家も、単に土地を手放したのではない。工業化によって農業を失うのではなく、農業を続けながら新しい街をつくるという未来像に共感した人も少なくなかったのではないだろうか。その理念のもと、郊外では住民の結束によって農地の区画整理が進められ、近代的な農業が実現した。かつて砂丘ばかりで不毛とまで言われた土地も、創意工夫を重ねた結果、現在ではピーマンの生産量・生産額ともに日本一を誇るまでになっている。工業と農業の両立は、「夢物語」ではなかったのである。 広大な公園でスポーツや文化活動をして過ごす人々 市内には、緑地や公園も多い。鹿島港建設のため、その大部分が埋め立てられた「神之池」は、現在では緑地公園として市民の憩いの場となっている。かつての7分の1ほどの面積になったとはいえ、それでも十分に広く、多くの野鳥が飛び交う姿を見ることができた。公園内には、文化センター、体育館、公民館、武道館などの公共施設が集まり、その並びにはスターバックスもある。防災アリーナでもそうだったが、この日も体育館や武道館では、地元の人たちが練習や試合に汗を流していた。工場や関連産業によって働く場があり、休日にはスポーツや文化活動を楽しめる。ここには、「働く場所」と「暮らす場所」の両方がある。これこそが、岩上二郎が目指した都市の姿だったのではないだろうか。単に工場を誘致するのではなく、人々が豊かに暮らせる都市を一からデザインする。その構想は、半世紀を経た今も、この街の風景の中に確かに息づいているように感じた。 「基地の街」を選ばなかった地元の人たち 公園内にある神栖市文化センターの正面には、「平和の塔」が建っている。戦時中、この場所には「神之池海軍航空基地」があり、終戦間際には特攻機「桜花」の訓練も行われていた。戦後の1950年代には、この跡地を自衛隊基地とする計画が持ち上がった。しかし、地元住民は強く反対し、最終的には計画を白紙撤回へと追い込んだ。その後に持ち上がったのが、鹿島大コンビナート建設計画だった。基地計画で住民の反発を経験していた茨城県は、その反省を踏まえ、今度は住民との対話を重ねながら計画を進めていったという。もし基地計画がそのまま実現していたなら、神栖は今のような工業都市ではなく、基地の街になっていたのかもしれない。振り返れば、鹿島開発も、防災アリーナの住民投票も、この街では行政と住民が何度も向き合ってきた歴史だった。止めるべき時は止め、納得した時には大きな事業にも協力する。神栖には、そうした自治の土壌が今も息づいているように感じた。 工業地帯の圧倒的なスケール感 神之池緑地を隔てた市街地の反対側には、広大な工場地帯が広がっている。あらためて、そのど真ん中を車で走ってみると、鹿島臨海工業地帯のスケールを実感する。工場ごとに大きなゲートが設けられ、看板には「花王」や「旭硝子」といった馴染みのある企業名もあれば、初めて目にする会社名も数多く並んでいる。神栖地区には、化学や飼料など素材産業の工場が多いという。一般消費者の目に触れる製品ではない。しかし、それらはさまざまな製品の原料となり、見えないところで日本の産業を支えている。巨大なプラントが延々と続く風景を見ていると、その存在感に圧倒される。そして、それらの需要が一朝一夕になくなるものでもないことを考えると、この街で働く人々にとって、安定した雇用の基盤になっていることもよく分かる。 土地交換制度の工夫で進められた鹿島開発のその後 工場が建ち並ぶ一方で、その脇には住宅地も広がっている。工場用地を提供した住民が、代替地として移り住んだ場所なのだろうか。中には立派な屋敷も見かけた。鹿島開発では、「鹿島方式」と呼ばれる土地交換制度が採用された。「4割売却、6割交換」を基本とする仕組みである。これによって住民は生活の基盤を残しながら開発に協力することができ、合意形成を進める上でも大きな役割を果たしたという。一方で、土地の位置や所有面積によって、開発から受ける恩恵には大きな差も生じたはずだ。生涯で目にすることのないような補償金を手にし、「鹿島御殿」と呼ばれる豪邸を建てた人もいたという。その一方で、開発の波をすぐそばに見ながら、ほとんど恩恵を受けなかった人もいたのかもしれない。 鹿島開発は、間違いなく日本を代表する大事業だった。しかし、その「成功」の背後では、一人ひとりの暮らしや人生が大きく変わり、複雑な思いを抱えながら新しい時代を迎えた人々も少なくなかっただろう。それでも現在の神栖を歩くと、公園や文化施設、スポーツ施設など、市民に開かれた公共空間が数多く整備されている。開発によって得た豊かさを、少しでも街全体へ還元しようとしてきた。その積み重ねもまた、鹿島開発が神栖に残したものなのだと思う。 風力発電と防波堤を活用した“ギャラリー”のある海岸風景 工業地帯の海沿いでは、風力発電が何機も並ぶ光景を見ることができる。何キロも続く直線道路の脇のコンクリートの防波堤には「1000人画廊」と呼ばれるギャラリーがある。誰が描いたのだろうか。思い思いに描かれた壁画がずらりと並んでいる。小学生が友達と協力して描いたような絵もあれば、アート作品のようなものもある。 そこに、ちょうど絵を描いている最中の女性を見かけた。「KAMISU」というタイトルで、うちわを持った女子高生がポーズを取っているポップカラーの絵が途中まで描かれていた。真ん中に、完成予定の下絵が置いてあった。 「可愛らしい絵ですね。」 創作の邪魔をしてはいけないと、軽くあいさつ程度に声をかけたつもりだったが、その千葉から来たというアーティストは、饒舌に語り出した。 「毎年、この季節に募集をしていて、やっと当選したのです。ペンキや養生シートまで、神栖市で支給してくれるのです。今日中に仕上げなきゃ。完成したら、絵の真ん中でポーズを取ると、女子高生に囲まれたように写真が撮れるのです。」 それを聞いて、心底、美しい絵だと思った。 そこから海沿いは「シーサイド道路」が続き、海水浴場や砂丘を見下ろすスポットがいくつもある。神栖市の南側の旧波崎町だったエリアだ。工業地帯ができる前の不毛と言われた砂丘の光景は、きっとこんな感じだったのだろう。鹿島灘の波は高く、塩風も強い。風力発電の鉄塔は、早くも錆が浮き出ている。しかし、小高く積もり上がった砂丘のおかげで、東北地震の際の津波の被害は内陸まで及ばなかったようだ。 臨海工業地帯と並行して作られた活気あるニュータウン 喉が渇いてきたので、カフェを探した。グーグルでおしゃれなカフェを見つけた。田舎に来ても、ふと都会的な雰囲気を味わいたくなる。そこに向かっていると、街並みが変わった。田舎の町でなく、ニュータウンのようだった。まだ新しい戸建て住宅がきれいに並んでいる。低層の集合住宅もあるし、小学校も中学校もある。かつては陸の孤島と呼ばれた地域のイメージとはかけ離れていた。銚子をはじめ近隣の市町村が急速な人口減少に喘いでいる中で、神栖市だけは人口維持をし続けている。立派な高等学校の校舎もあった。ここは、少子化、廃校とは無縁のようだ。 たまたまやってきた「土合ヶ原」も、岩上知事が計画したものだった。まだ、住友金属などの主要企業が着工したばかりの段階から、用地買収と造成を進めて作れらたニュータウンだ。工場が完成して全国から移住してきた技術者や労働者がすぐに住める街を用意したのだ。ここは、鹿島工業地帯の中心からは少し離れた場所だ。しかし岩上は、あえてこの距離に理想的な住宅街を作った。自動車で通勤する前提だ。住宅街を歩くと、駐車スペースは2台以上が基本だ。ひとつの区画もゆったりしている。平屋建ての家も多く見かけた。そして、新築中でシートに覆われた分譲地がいくつもあった。東京から遠く離れた、駅もない小さな地方都市とは思えない光景だった。しかも、この住宅街は完成した街ではなかった。今も新しい家が建ち続けている。半世紀前に描かれた都市計画は、今なお現在進行形だった。 広大な遠浅の砂浜という「公共空間」 そして、鹿島灘の南端にたどり着いた。そこに波崎海水浴場がある。サーファーの間では有名なサーフポイントでもある。目の前は利根川の河口だ。日本屈指の流域面積を誇る大河川が大量の土砂を海へ運び、それが鹿島灘の強い潮流にも負けず、広大な遠浅の砂浜をつくり上げている。海に着くと、波打ち際ははるか遠くだ。果てしなく砂浜が広がっている。無料の駐車場も整備されているが、車のまま波打ち際まで乗り入れる人も多い。砂浜には、幾筋ものタイヤの跡が残っていた。 そこに、一枚の看板が立っていた。 「この先、砂浜、四輪駆動車でも埋もれる可能性あり」 車両進入禁止ではない。危険だから禁止するのではなく、注意を促した上で利用者の判断に委ねている。そんな公共空間だった。しばらく眺めていると、案の定、一台の車が砂浜でスタックした。しかし、近くにいた人たちが自然と集まり、みんなで車を押し始めた。やがて車は砂から抜け出し、何事もなかったように走り去っていった。それでいいのではないかと思った。 神栖市民の日常とプライド ついに、神栖市の最南端までやって来た。利根川の大きな河口の向こうには、銚子の街並みが広がっている。飯沼観音の朱色の五重塔が見え、その丘の向こうには銚子ポートタワーが顔をのぞかせていた。川沿いの歩道を歩きながら、その景色に見惚れていると、次々と車がやって来た。道路脇には路上駐車の列ができ、車からは折りたたみ椅子やテーブルが運び出される。歩道には思い思いの場所で腰を下ろす人たち。まるでピクニックのような光景だった。まさか、銚子の街並みを眺めるためでもあるまい。時刻は夕方六時。もしや、このパターンは。デッキチェアでくつろぐ初老の夫婦に声をかけた。 「花火です。ちょうど橋の手前に船が浮かんでいるでしょう。あそこから打ち上がるのです。」 やはり、そういうことか。ここは、絶好の観覧席ではないか。さすがモータリゼーションの最先端都市。神栖は、花火大会ですら、まるでドライブスルーのように楽しんでしまうのか。しかし、ここは公園ではない。道路である。気になって尋ねると、夫婦は笑いながら答えた。 「毎年こんなですよ。向こうの銚子は屋台も出て賑やかですけどね。」 その一言で十分だった。神栖の人たちは、公園も、防波堤も、砂浜も、公共空間をごく自然に暮らしの一部として使っていた。今日一日歩いてきた風景が、頭の中で一つにつながった。 「どちらから来られたのですか。」 港公園の売店でも、同じ言葉をかけられた。その言葉には、よそ者を歓迎する気持ちと、自分たちの街への誇りが自然ににじんでいた。参りました。

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    田園地帯の向こうに工場の煙突群が見える

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    鰐川橋公園で釣りを楽しむ人たち

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    国道124号線のロードサイド風景

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    神栖のシンボル「アートホテル鹿島セントラル」と高速バスターミナル

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    アートホテル鹿島のアトリウム

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    高速バスターミナルの待合スペース

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    神栖中央公園から見たアートホテル鹿島方面

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    神栖中央公園の「ふれあいの丘」

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    かみす防災アリーナ

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    防災アリーナ内のフィットネス

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    メインアリーナ内部

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    神栖中央公園にある「時の奇跡」碑に記された神栖町鹿島開発用地提供者名

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    神栖市歴史民俗資料館の展示室

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    資料館での鹿島臨海工業地帯への進出企業の紹介

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    港公園の展望塔は改修工事中だった

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    鹿島港を望むベンチ

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    鹿島埠頭に停泊する保安船

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    見学船「ユーリカ」乗船場

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    岩上二郎先生顕彰之碑

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    神之池を中心に広大な緑地公園となっている

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    神之池の野鳥と隣接する工場地帯の風景

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    スターバックス コーヒー神栖神之池緑地店

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    神之池公園内にある神栖市文化センター

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    文化センターの自習室からは神之池が目の前に

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    文化センター前の「平和の塔」

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    鹿島臨海工業地帯のコンビナート風景

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    神栖総合公園から工場地帯を眺める

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    鹿島港の海側の入口付近で対岸の製鉄所の光景

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    防波堤に描かれた「1000人画廊」

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    「1000人画廊」でアートを描く女性

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    日川浜海水浴場

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    砂浜で遊ぶ若者たち

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    広大な砂丘がこの地域の原風景

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    「土合ヶ原」ニュータウンの住宅街では新築分譲が続いている

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    土合ヶ原にある茨城県立波崎高等学校の立派な校舎

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    波崎海水浴場の砂と風による模様

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    砂浜に入る車両への注意看板

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    利根川河口で対岸に銚子の街並みが見える

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    歩道にチェアを並べて花火大会が始まるのを待つ

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