「今は消えた」利根川水運の拠点"関宿”が残した、最先端の企業城下町・野田
千葉県野田市|東京を世界都市へと導いた江戸時代の偉大なる治水事業 関東平野は本当に大きいな、といつも思う。言うまでもなく日本一の面積を誇る平野であり、ここに日本の人口の1/3の人々が暮らしている。人口だけではない。工場が湾岸や内陸部にもたくさんあり、合わせると全国の3割の生産額を占める。さらに、農業王国でもあり、これも全国の25%ほどの生産額になる。農業といえば広大な北海道のイメージがあるが、関東全体で比較すると北海道の2倍近い生産額になる。耕作面積で北海道が圧倒的だが、単価の高い関東が生産額で上回るのだ。 世界で類を見ない東京都市圏の「広大さ」 そしてここに、首都東京がある。日本の政治、経済の中心であるばかりでなく、世界有数の大都市でもある。東京を23区だけでなく、連続した市街地とした埼玉や神奈川なども含めた「都市圏」というくくりで見れば、都市圏面積と人口が共に世界第3位である(国連統計より)。実はこのように面積と人口の両方が大きい都市は世界的に見ても東京だけの特徴であって、ニューヨークなどのアメリカ型は面積は広いが人口はそれほど多くなく、インドなどのアジア型は人口は多いが面積は狭い。すなわち、人口の多さもさることながら、この「広大さ」が東京を東京たらしめている要因とも言える。 川が作った関東平野 関東平野がなぜこんなに大きくなったのか。そこに河川の存在がある。関東も沖積平野であり、川が運んできた土砂が堆積して出来上がったものだ。関東に流れ込む川は、北は日光から越後、三国山脈などの豪雪地帯も含んでいて、その範囲も広い。西には奥秩父などの急峻な山岳地帯から流れてくる。荒川、多摩川、利根川とこれら複数の大河川が広大な関東平野を作ってきた。 その関東平野だが、長い間、不毛の土地でもあった。幾筋も流れる川が度々氾濫を起こし、湿地帯状態だったという。しかし、今の繁栄する関東を見ていても、昔の光景がまったく想像できない。そこで「関宿」に行ってみようと思いついた。 利根川と江戸川の分岐点「関宿」 関宿は、地図で見ると、利根川と江戸川が分岐している地点にある。千葉県を形取った人気キャラクター「チーバくん」で言えば「鼻の先端」部分となる。千葉、茨城、埼玉の3県の境界が交わる場所でもある。関宿城博物館の駐車場に車を停めて、そこからは歩いてチーバくんの鼻先部分を目指すことになる。周辺は公園として整備されていて、ジョギングや体操などをして過ごす地元民の姿があった。さらに進むと、河川敷の雰囲気となるが、川の流れはそこからは見通せない。それだけ広大な河川敷だ。ラジコン飛行機で遊ぶ比較的ご年配の集団もいた。 いつ氾濫するか分からない不毛な土地の姿 本当は、国が管理する河川区域での活動にはいろいろ制限があるのかもしれないが、私は、こういった河川敷ののびのびとした雰囲気が好きだ。草はらの匂い。鳥のさえずり。モンシロチョウが舞い、歩くたびにバッタが跳ねる。中には「立ち入り禁止」と書かれた道もあるから注意だ。散策コースとしてもっときちんと整備すればいいのに、とも思った。しかし、そうならない理由もすぐに分かった。 なんとか川が見える位置までたどり着いたが、轟々と濁流が流れていた。思っていたような水辺の爽快さはない。そこには、どこか荒涼とした風景が広がっていた。おそらく、ここ数日は晴天続きだったから、別に大雨によるものでもなく、いつもこうなのだろう。そして少し、危険も感じた。大きな川が、ここで2つに分かれるポイントだ。この流れに不自然さがあり、自然がそれに抗おうとしているかのようだった。その力によって足元の地面がいつえぐられるか分からない感覚があった。それにわずかでも増水した時でも、すぐには高い場所に逃げることができない場所だ。 私は、かつての不毛な土地だった関東平野の姿はこんなだったのだろう、と勝手に想像した。いつ川の水にさらわれるか分からない。こういう土地では住むことも、作物を育てることもままならない。 江戸にやってきた徳川家康が「利根川東遷」に取り掛かる それを痛感した歴史上の人物が、徳川家康だった。生まれ育ちが駿河(静岡県)でずっとそこを拠点に勢力を伸ばしてきたところ、いきなり秀吉から江戸に行けと命じられる。そこは不毛な関東平野の河口付近の場所だ。駿河にも大井川や天竜川などの暴れ川がたくさんあったから、河川の怖さもよく知っていた。しかし、この土地をなんとか変えられないものか。そう家康が考えたところから、関東の歴史は大きく動き始める。 それがいわゆる「利根川東遷」だ。この流域面積日本一の大河川は、現在は千葉県の銚子(チーバくんの耳の先端部分)を河口に太平洋に注がれているが、江戸時代より前は、それが東京湾(江戸湾)だった。房総半島を挟んで、西側から東側に大きく流路を人間の力で変えたのだ。この大工事を利根川東遷と呼んでいる。家康が仕掛けて、それから60年もの歳月をかけて行われた一大事業だった。 その詳しい内容は、関宿城博物館で見ることができる。私は何か新しく大きな運河を作ったようなイメージを持っていたが、そうではなかった。もともと網目のように流れていたたくさんの大小の河川を繋いだり、堰き止めたり、広げたりしながら、段階的に計画的に進められたものだ。だから、もちろん、この壮大な工事は関宿だけで完結したわけではない。それでも、関宿での工事が全体のクライマックスであったのではなかろうか。 この博物館は、かつての関宿城を模して天守閣を再現した建物で、その天守閣の最上階は展望室になっている。望楼から眺めると、周囲はのどかな田園地帯だ。通常、お城の周りは城下町が広がっているものだが、その痕跡がない。不思議に思っていると、展示員の女性が近づいてきた。 「スカイツリーなら、あそこに見えますよ。」 私の関心はそこではなかった。それでも、それくらいに周囲には視界を遮るものが何もないのだなと思った。 「昔はこの天守閣は、目の前の森のところにありました。そして、その右に見える川の水門、それが『江戸川のはじまり』なんですよ。」 自然の水の流れとの闘い 遠くに赤い水門が見えた。当時の大工事のスケール感が伺える。もともとは江戸川という名前の川はなく、「太日川」という江戸湾に注がれる独立した川があったのが、利根川東遷の一環で利根川の支流としてこの地で接続され、それ以降、それを「江戸川」と呼ぶようになった。これを江戸に向かう水運のメインルートにしたのだ。「不自然」な流れはその時できたものだ。通常の河川は、下流へ向かうほど支流を集めて大きくなる。これほどの大河川が内陸部で二つの大きな流れに分かれ、それが長く維持されている姿には、人為的なものを感じる。もし、なんらかの原因で2つに分かれたとしても、いずれか一方に水が流れるようになり、もう片方は次第に泥が溜まって干上がっていくのが自然の摂理だ。 関宿城から橋を渡ったところに、「関宿水閘門」がある。昭和2年に作られたコンクリート製の水門で、現在も現役として稼働している。こうやって、二つの河川に流れる水量をコントロールしているのだ。江戸時代の前期に、利根川東遷は実現し、下流域の水害は減ったが、それでも利根川流域の水害がなくなったわけではなく、明治時代にかけても大規模な水害に悩まされてきた。明治時代になると、蒸気機関車で土砂を運ぶなどして、治水事業を続けられた。外国から土木技師を招聘し、技術を学び、積み上げていった。これが現在の日本の土木技術の基礎になっている。 水運の要衝としての関宿の繁栄と消失 なお、関宿の歴史をさかのぼると、室町時代からの城下町だった。その時から、水上交通の要衝だったゆえに、上杉、武田、北条氏らの攻防がこの地で繰り広げられた。それが、江戸時代に利根川と江戸川が交差する水運の要衝となり、関所も設けられ、河岸場の周辺には大きな土蔵や宿、茶屋、商店などが並び、繁栄を極めた。しかし、明治になると、関所としての役割を終え、さらには、度重なる洪水でほとんどの建物が流され、その上に新しい堤防も築かれ、城下町も関所の痕跡も消滅してしまった。今では、小さな石碑がひっそり建っているのみとなっている。 関東の「関宿(せきやど)」に対して、同じ字で三重県亀山市に「関宿(せきじゅく)」という東海道の宿場町があるが、こちらは今も昔の街並みが色濃く残されており、重要伝統的建造物群地区に指定されている。同じ交通の要衝であった土地だったわけだが、関東の関宿のほうが、時代の流れと自然の力に大きく影響されてしまった。ここに、水上と陸上の違いもあるだろうが、関宿は、関東全体の治水の要でもあったことが大きいと思う。現在の関東、そして世界都市・東京の安全と繁栄は、このように姿を消した町の上に築かれているのだ。 関宿の偉人が「日本を終戦に導いた」 現在の関宿関所跡の石碑の周辺は、主に農家が建ち並んでいる。その一角に「鈴木貫太郎資料館」がある。鈴木貫太郎と言えば、終戦時の内閣総理大臣として歴史に名を刻んだ人物だ。木々に囲まれた小さな建物がその資料館だ。入場無料。中に入ると、小部屋がひとつあるのみで、壁には展示物が並んでいた。そこに資料館の人が入ってきて、いろいろ説明を始めた。来館者は私一人しかいなかったが、丁寧にツアーガイドをしてくれた。あとでこの方が副館長だったことを知る。 鈴木貫太郎は、元々は海軍として、日清・日露戦争で功績を上げ、その後、天皇陛下の側近となっていたところ、二・二六事件で銃弾を受け瀕死の重体となるが、奇跡的に生還。そして、終戦間際の1945年4月に内閣総理大臣に就任。連合国からのポツダム宣言の受諾で閣内をまとめ、天皇からの聖断を仰いで戦争終結を断行した。ゆえに鈴木は「日本を終戦に導いた首相」と呼ばれている。日本の歴史のとても大きな話だ。その終戦の功労者は、人生の最後の場所として、この静かな関宿を選んだ。父親が関宿藩の代官だったという縁もある。資料館の敷地は、鈴木の邸宅があった場所だ。 その副館長は、地元の人だったようで、懐かしく思い出していた。 「わたしが小学生の頃、ここの前を通学で通っていましたが、何か『特別な場所』という感じでしたね。」 その建物は取り壊されてしまい、現在は門扉が残っているのみだ。関宿の城下町も、そこを代表する偉人も、日本に大きな足跡を残しながら、今ではその面影を静かに残すだけとなっている。「関宿町」は2003年に野田市に編入され、市町村名としても地図から姿を消した。 世界で知られる「キッコーマン」ブランド 野田といえば、醤油で有名だ。キッコーマンは、家庭用醤油で国内シェアの5割を占めるトップブランドだ。六角形の亀甲の中に「萬」と書かれたロゴマークは、誰でも知っているものだ。ロゴに代表されるキッコーマンのブランディングは、世界的にも先駆例として知られている。アメリカで「亀甲萬」で商標登録をされたのは、明治12年。これはあのブランディングの世界企業、コカ・コーラよりも10年以上も早い。 その創業家の一人、茂木佐平治の旧邸宅が、野田市の中心街にある。大正時代に建てられた建物で、立派な庭園もあり、国の登録記念物となっている。現在は野田市に寄贈され、市民会館として活用されている。中に入ると、キッコーマンの歴史に関する展示がある。古い建物の雰囲気を感じながら歴史を学ぶ、静かなひと時だ。 しかし、展示スペースの正面に掲げられたホワイトボードを見ると、 「コスプレ撮影」 と書かれていた。どういうことかと思い、ふと庭園のほうへ目をやると、鮮やかな着物をまとい、髪を染めた若い女性たちが、刀を振り上げてポーズを取っていた。この場所は、貸し切って自由に使えるスペースにもなっているのだ。とても楽しそうだった。 このような歴史的建造物が、ただ展示を眺めるだけの場所となっている例も多い。しかし、私はそれだけではもったいないと思う。撮影会やイベントなどに大いに活用するのは、とてもいい。そのほうが、建物も喜んでいるような気がする。もちろん、建物を傷つけないよう、利用する側にも相応の節度は求められる。 企業城下町「野田」 同じ敷地内に、野田市郷土博物館もある。この土地と建物も、キッコーマンが市に寄付したものだ。博物館の展示を見ると、野田市の歴史が、醤油醸造の歴史そのものだったこともよく分かる。江戸時代から水運を活かして原料を仕入れ、江戸に向けて川を下って出荷してきた。野田は、醤油とともに繁栄してきた。明治になると、利根川運河というバイパスも作られ、関宿を回らずとも運搬できるようになり、大型の蒸気船も活躍するようになった。そして、水運から鉄道へと時代が移り変わるのに合わせて、自ら鉄道を敷いた。これは現在の東武野田線(アーバンパークライン)となっている。そのほかに、水道、学校、病院、公会堂なども、キッコーマンが従業員や地域住民のために作ったという歴史だ。まさしく「企業城下町」だ。 そうやって感心していると、博物館の外が、何やら騒がしくなっていた。出て見てみると、コスプレではなかった。神輿だった。私はどうも、ちょうど夏祭りの時に野田に来てしまったようだ。夕暮れ近くになると、本町通りの両側の歩道に出店が立ち始めた。すでにあちこちの空き地が法被を着た老若男女で溢れかえっていた。こういうイベントでは、キッコーマンの土地や駐車場が開放されるのだという。 市内に残る産業文化遺産の建造物 市内を歩き回っていると、大きな瓦屋根の建物や、レンガ造りの蔵や工場などを数多く見かける。「興風会館」は、昭和初期に建てられたレトロな外観のビル建築だが、中に入るとホールのようになっている珍しい建物だ。「旧野田商誘銀行」は大正時代に建てられたもので、これも茂木家を中心とした醤油醸造業者たちで設立した銀行だったのだが、「商誘(しょうゆう)」の名称は醤油と語呂を合わせたものだ。銀行名にダジャレを使うとは、ノリがいい。 そしてそれらは、文化財にも指定されている貴重な建物でありながら、今も現役としてしっかり使われている。空調機器や防災設備なども新しいものに更新され、時代に合わせて改修されているようだった。それら歴史建造物に隣接してガラス張りの近代的なキッコーマンの野田本社ビルや研究開発棟、国際食文化研究センターなども建ち並んでいる。こここそが、この町の中心であるかのように感じられた。 ライバル”銚子”に対する危機感 最近、同じく“醤油の街”である銚子にも行き、ヤマサ醤油を見てきた。しかし、野田ほど町全体が「キッコーマン一色」ではなかった。野田は何が違ったのだろうか。実は、最初から一つの企業にまとまっていたわけではない。明治時代までは、高梨家と茂木家が激しいシェア争いを繰り広げていた時期もあった。しかし、第一次世界大戦後の不況などを背景に、両家を中心とする醤油醸造家たちが手を結び、「野田醤油株式会社」を設立した。これが現在のキッコーマンである。当時は、銚子という最大のライバルに負けてはならないという強い危機感もあったようだ。 複数の創業家の中で決めた持続可能モデル 複数の創業家が一つの会社に集まったことで、創業8家の間には厳格な不文律が設けられた。なかでも特徴的なのは、社長を各家の持ち回りにはせず、実力のある者を選ぶとしたことだ。この考え方が、キッコーマンを100年以上にわたって存続する企業へと導いたのではないか。同族企業でありながら、その経営には現代的なガバナンスに通じるものがある。今では、世界のビジネススクールでも、キッコーマンは持続可能な経営モデルの研究対象となっている。「コーポレートガバナンス」という言葉さえなかった100年以上前から、その考え方を実践していたのである。 水運の街が生んだ気風 しかし、激しく競い合っていた茂木家と高梨家は、なぜ手を結ぶことができたのだろうか。ここからは私の想像だが、そこには水運交易の町として栄えてきた野田の歴史が関係しているのではないか。多くの人や物が行き交う土地では、外部の人間や新しい文化を受け入れる、開かれた気質が育つ。江戸川を使えば、江戸の流行や新しい考え方もいち早く伝わり、町には洗練された感覚が磨かれていったことだろう。そして、同じ川を使って商いをする者同士には、「同じ船に乗る運命共同体」としての仲間意識も生まれていたのかもしれない。 水運の要衝として栄えた関宿の歴史は、野田の醤油産業へと受け継がれ、やがて企業と市民がともに歩む企業城下町を育てた。その先に、今日の世界企業キッコーマンがある。 これら醤油醸造の歴史を伝える施設群の多くは、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。私は、いずれこの一帯が世界文化遺産に認定される日も来るのではないかと思った。世界遺産となった富岡製糸場にも通じるものがある。醤油という日本人の食文化を支え、それを世界へと広めながら、企業と町がともに繁栄してきた。その歴史は、単なる産業遺産ではない。企業が地域社会とどのように共存し、時代の変化に適応しながら発展していくことができるのか。その理想的な姿を、野田という町全体が今も示し続けている。それは、世界に伝え、未来に残していく価値のある文化遺産だと思う。
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