神奈川県の奥地、山北町は高速道路で“通過するだけ”の場所なのか
神奈川県山北町|丹沢山地に囲まれ、かつて東海道本線の要衝として栄えた町 東名高速道路は、日本経済の大動脈で、東京、名古屋、大阪の三大都市圏を結ぶ、日本の物流の屋台骨である。それが開通したのは、1969年。それからもうすぐ60年になる。その工事の最後の難所だったのが、大井松田と御殿場インター間で、神奈川県と静岡県の県境を越える付近だ。そこにあるのが、神奈川県の山北町だ。 神奈川と言えば、横浜や湘南など海のイメージが強い。しかし県西部へ向かうと、景色は一変する。丹沢山地の急峻な山々が迫り、その最深部とも言える場所にあるのが山北町だ。面積の9割は森林、しかも丹沢国定公園などの自然公園に指定されている山奥だ。 東名高速で知らずに通り過ぎる町 東名高速には、「山北(やまきた)」という名前の付いたインターもサービスエリアもないから、普段よく東名高速を使うという人でも、山北町の存在を案外知らないではないか。東京方面から車を走らせると、山並みが迫り出し、高速道路にしてはカーブや勾配がきつくなる。たまに、防護壁の合間から広がる景色は、眼下低くに広がる田舎の風景だ。その時初めて、意外と高いところを走っていることに気づかされる。山北町は、その足元の町だ。 「都夫良野トンネル」真上の山からの眺め 私は、途中まで完成している新東名を使って、山北町に向かってみたが、今は新秦野インターが終点で下ろされ、その先はまだ工事中だ(2026年5月現在)。そこから国道246号を西に進み、「県立つぶらの公園」の展望台に上ってみた。「都夫良野トンネル」と聞けば、関東の人なら聞き覚えがあるだろう。東名高速の中でも2番目に長いトンネルだ。その真上にこの公園がある。 戦国時代、この地は武田氏の侵攻に備える北条氏の重要拠点でもあった。ゆえに東西に眺めが効く場所だ。西には、富士山とその南側に広大に広がる裾野が見渡せる。東には、関東平野の最西部に位置する足柄平野が一望でき、その奥には相模湾と三浦半島までが視界に入る。右手には、箱根の山々が幾重にも連なっている。すなわちここが、関東と駿河(静岡県)を結ぶ主要ルートとなることも、よく理解できる。 江戸時代の“東海道”は箱根ルートとなる しかし江戸時代、徳川幕府が五街道の「東海道」として重視したのは、箱根越えルートだった。急峻な箱根の地形は関所を設けるのに都合がよく、人や物資の流れを統制しやすかったからだ。また、古くから「暴れ川」として知られた酒匂川流域は、たびたび洪水に悩まされていた。こうして、関東と駿河を結ぶ主要ルートは箱根側へと集約されていく。ここが、山北町の運命を決める最初の分かれ道だったのかもしれない。その後、箱根は、温泉地、観光地として部類の発展を遂げる。 鉄道時代における繁栄 しかし、明治維新となり、鉄道が東海道線として東京から西に伸ばす時に選ばれたのは、山北ルートだった。明治政府は、まだ長大トンネルを掘る技術が十分ではなかったこともあり、多少勾配がきつくても、距離の短い山北ルートを選んだ。勾配の問題は、補助機関車を連結することでクリアできた。そして、その連結や給炭の中間基地として、山北駅が「鉄道の駅」として栄えた。これが今の山北町の基盤となっている。当時の繁栄ぶりについては、駅前の「山北町鉄道資料館」で見ることができる。ただし「ふるさと交流センター」の建物の2階にひっそりと展示されている。入場無料である。 「東海道線」の座を“熱海ルート”に奪われる それが昭和に入ると、トンネル掘削技術の進歩によって、熱海から三島を直接結ぶ「丹那トンネル」が開通する。これによって東海道本線は熱海経由へと切り替わり、山北ルートは「御殿場線」と改称された。かつて東海道の大動脈だった山北駅も、徐々にその役割を変えていくことになる。 その後、新幹線も当然のように熱海ルートを通り、日本の東西を結ぶ主役は完全に海側へ移った。現在の御殿場線は単線で、運行本数も1時間に1~2本程度。かつての幹線鉄道とは思えないほど静かなローカル線となっている。 駅前は閑静な住宅街のような雰囲気 そこへ今度は、車社会の時代がやってくる。日本経済の大動脈となる東名高速道路もまた、この山北町を通ることになった。しかし、山北インターは設けられなかった。高速道路は町の上空を横切りながら、多くの人々はその足元に山北町があることすら知らず、通り過ぎていく。 駅前のメインの通りを歩くと、かつての繁栄の名残りを感じる蔵や商家の古い建物が、まだ少し残っている。昭和の面影を残す小さな個人商店が並ぶが、多くはシャッターを下ろしている。そんな中でもぽつぽつと現役の店もあれば、新しく始めたようなお店もある。幸い、まだ歯抜けのような更地が増える一歩手前。しかし放っておけば、それも時間の問題のように見える。けれども、高い建物がほとんどなく、閑静な住宅街のような雰囲気もある。昔からの水路が道端を静かに流れ、線路沿いに続く桜並木も、鉄道の町だった時代の余韻を静かに残している。 その「本流」から一歩外れたような感覚が、町全体に漂っていると言ってよいものか。 山間の集落で見た光景 私は、この町のことをもっと知りたくて、山深くに入っていった。大野山の頂上を目指した。あまり観光地化されていない山だ。その証拠に、道路の舗装が荒れていて、道幅も狭く、対向車とすれ違いもできないような山道が続く。案内標識も十分でないから、道も間違える。そうやって何度かUターンをしているうちに、一軒のそば屋を見つけた。そのただならぬ佇まいに、思わず目が止まった。これは名店であろうと確信した。こういう場所で長く続いている店には、独特の空気がある。私はこれまで、ガイドブックにも載らないような田舎町を数多く歩いてきたから、そういう勘だけは少し働く。 お昼の開店までまだ時間があったから、その店のある山間の「深沢」という集落を少し歩いてみた。不思議な集落だ。田んぼや畑があるわけでもない。見るからに別荘地、というわけでもない。古い家もあれば、比較的新しい家もある。「共和・福祉バス待合所」という手作りの看板とベンチがあった。誰かが、不自由になったお年寄りのために動いている、そんな気配が、この小さな集落には漂っていた。まるでジブリに出てきそうな変わった建物もあった。「柊山荘パビリオン」との看板があって、「オープンガーデン」「内覧可能」とも書かれてあった。この集落には、普通の山里とは違う空気が流れているように思えた。 昼の11時も過ぎた頃には、すでにそば屋の庭に、何人も並び始めていた。その中に、ご主人らしき人がいて、隣に建っているガレージに案内してくれた。そこには、目を見張る光景が待ち受けていた。そば屋の風情からは想像もつかない、クラシックカーが数台並んでいた。特に目についたのは、軽自動車だった。それもどこか懐かしい昭和の空気。1台はアルトワークスだった。ちょうどバブル時代の車だ。もう1台は、ドアが羽のように真上へ開く「ガルウィング」の軽自動車だった。かつてスーパーカーの象徴だった機構を、軽自動車で遊び心たっぷりに実現した、バブル時代限定の希少車だ。ご主人が過去を振り返って、こうつぶやいた。 「ずっと外車ばかり乗ってたんだけどね。」 それから、客席に案内されて、店の中にはところ狭しとレトロな趣味の骨董品がたくさん並び、これも独特の雰囲気を漂わせていた。カウンターの窓からは、イングリッシュガーデンを日本風にアレンジしたような美しい庭が眺められた。天せいろが出てくるまでに1時間くらいかかったが、私にはそれが短い時間に感じた。天ぷらは、山菜などを揚げたものがてんこ盛りだった。厨房からは、奥さんに小言を言われながら料理を作る、ご主人の声も聞こえてきた。そんなやり取りまで含めて、この店の空気だった。 丹沢の山と向き合う写真家 大野山の山頂にはハイキングコースが広がり、トレッキングを楽しむ人々の姿も多かった。そこには、下界とは別の時間が流れていた。その清々しい山道から外れた脇道の奥で、三脚を立てて写真を撮っている人がいた。近づいてみると、両側に富士山と丹沢湖を見渡す絶景だった。しかし、その人のカメラは、富士でも湖でもなく、正面の何もない山を向いていた。年季の入った大型の望遠レンズという重装備と、食料などを詰め込んだカバン。帽子を目深に被り、人相がよく見えない。何か訳ありの人かもしれない。そう思うと、声をかけるのをためらった。しかし、私は昔から、こういう時に引き返せない性分でもある。怖いもの見たさ、というやつかもしれない。おそるおそる近づいて、話しかけた。 「あのう、何を撮っているか、お聞きしてもよろしいでしょうか。」 男は、こちらをちらりと見た。少し迷惑そうにも見えた。私は急に、自分がとんでもなく場違いな人間のように思えてきた。 「鷹だよ。」 低い声で、男はそれだけ言った。 私は、なぜか少し安心した。もし「人を待っている」とか、「監視している」とか言われたらどうしようかと、勝手に不安になっていたのである。 そこから、ぽつりぽつりと会話が始まった。初めのうちは面倒そうに返事をしていたが、私が、 「鷹とワシとトンビの区別もつかないんですよ。」 と情けない告白をすると、男は少し気の毒そうな顔をした。そして、それから急に饒舌になった。鷹の習性、国内での生息分布、それから羽の美しさについてまで、私もにわかに知識が豊富になった。それにしても、鷹を追い求めて日本中の山々を知り尽くした男が、この山北の丹沢の風景と息を殺して向かい合っていることに、何か尊いものを感じた。別れ際に、あなたの作品をどこで見れるか聞いてみたところ、フェイスブックのグループページを教えてくれた。「オレたちもうきん族」とか。思わず吹き出してしまったが、それですべてが納得できた。やりたいことをやる、ということ。 構造美を誇る新東名の巨大アーチ橋 山を下りたところで、完成が近づいている巨大な橋を河原から見上げた。すでに「山北天空の橋」と名前が付けられている通り、空をまたぐように天高くに伸びた美しいアーチ状のこの橋は、新東名高速工事の最後の難関を象徴するかのような構造物だ。この巨大さと美しさに、人類の英知を感じた。そして、この橋の近くには、山北スマートインターチェンジも建設中だ。いよいよ「通過しない」メインストリームが山北町にやってくる。これがこの地をどう変えていくのだろうか。 神奈川県民の飲み水の3割を供給するダム湖 その橋の少し上流には、ダム湖で有名な丹沢湖がある。これも圧倒的な巨大さを誇る構造物だ。そして、このダムの水が、県内の水道水の実に3割をまかなっているという。昭和の時代に、急増する人口に対応するために作られたダムだ。その時に水没してしまった集落の記憶を残す資料を「丹沢湖記念館」で見ることができる。江戸末期に建てられて移築保存された茅葺古民家の「三保の家」もある。県民の飲み水の水源でもあるから、この地域の自然保護に対する誇りも高い。こうした犠牲と献身の積み重ねの上に、今の神奈川の暮らしがある。私も横浜市民だから、山北に足を向けて寝れないと思った。何かに守られているような心地よさもある。ありがとう。
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