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家いちば見聞録

川の両岸で発展してきた“足利”から生まれた物語とは

栃木県足利市|厳かな山々と渡良瀬川に囲まれた歴史都市 「足利」と言えば、京都の金閣寺を建てた足利義満の名前が浮かぶ人も多いだろう。それともうひとり、教科書に必ず出てくる「足利尊氏(たかうじ)」だ。鎌倉幕府を滅ぼして室町幕府を開いた人物で、テストに必ず出る。幸い、一度聞いたら忘れないような名だ。ゆえに、足利には京都っぽいイメージがある。しかし、そのルーツである足利市が栃木県にある。たまたま偶然に同じ足利を名乗っているのではない。 「足利尊氏」のルーツは栃木県にあり 足利市の中心に、鑁阿寺(ばんなじ)というお寺がある。そこに向かう参道の「大日大門通り」を歩くと、足利尊氏の銅像を見ることができる。これで、足利市と足利氏がつながる動かぬ証拠となる。鑁阿寺がそもそも、足利一族の邸宅だった場所だ。そのためか、お寺の周囲には城郭のような堀割りがある。不思議な感じがする。木々がうっそうと生い茂る広大な境内には、児童公園やイベント広場のようなものもあり、市民の憩いの場所となっているのが分かる。 足利一族が残したお寺と学校 鑁阿寺を創建したのは、足利2代目の「足利義兼」だ。尊氏が8代目だから、そのずっとご先祖で、鎌倉時代の初期の頃となり、尊氏の時代からおよそ100年ほどさかのぼる。義兼の妻・時子は、源頼朝の妻である北条政子の妹にあたる人物だ。ところが、時子には不倫の疑いをかけられて自害したという悲しい伝説が残されている。その悲しみから義兼が自らの邸宅に仏堂を建てたのが鑁阿寺の始まりとされる。 そして、義兼が残したもうひとつが「足利学校」だ。足利学校は、「日本最古」の学校と言われていて、水戸の「旧弘道館」などと一緒に2015年に「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されている。しかし、最古と言われている割には、実際にいつ頃から始まったかが正確に分かっていない。早ければ奈良時代からという説もある。それでも、仮に義兼が創建した鎌倉時代だったとしても、「2番手」の旧閑谷学校(岡山県備前市)が江戸時代と言うから、足利学校がダントツで最古であることは間違いなさそうだ。 家いちば見聞録【水戸編「弘道館」】 https://ieichiba.com/kenbunroku/642%E6%B0%B4%E6%88%B8 足利学校が“唯一の大学”とされた理由 鑁阿寺のすぐ隣にある足利学校に行くと、あいにく、メインの「方丈」と呼ばれる講堂部分にあたる建物がちょうど改修工事中で立ち入ることができなかった。茅葺き屋根の葺き替えで、ブルーシートがかかった状態だった。最近、このような文化財建物が改修中のタイミングに当たることが増えた気がする。きちんと予算が充てられて、貴重な遺産を大切に維持管理していく流れができているのだとすれば、喜ばしいことだ。 足利学校受付の案内所で上映されているビデオを観ると、この学校のことがよく分かる。室町・戦国時代には、ここで儒学を学んだ僧侶たちが全国の戦国大名のもとに派遣され、ブレーンとなって各地の政治を支えた。大名や武士たちの間でも、この「足利学校ブランド」の先生たちから古典や儒学を学び、教養を身につけることが広まっていった。この頃、フランシスコ・ザビエルによって「日本で唯一の大学」として世界に紹介されたとも伝えられている。 “知の拠点”としての精神が受け継がれてきた さらに江戸時代には、徳川家康によって手厚く保護されるが、明治時代に入ると、西洋列強に追いつこうとする政府の方針のもと、「古い時代の遺物」とみなされ、学制公布とともに廃校となる。それでも、地元の人たちの力で敷地内に「足利学校遺蹟図書館」が建てられ、散逸しかけた貴重な書物を取り戻して、ここで保管してきた。こうして、「誰もが自由に学べる知の拠点」という精神が受け継がれてきたのだ。 「日本最古」という表現が気になっていた私は、ここで腑に落ちた。想像すると、学校らしきものは古くからここ以外にも全国各地に存在したのではないか。しかし、それが学問の体系として、ひとつの文化として、脈々と今に受け継がれてきた例は、ほかにないだろう。その意味で「最古」なのだと理解した。むしろ、「日本最長」と言ったほうが近い気がする。 一度取り壊された建物を完全に復元 その地元の意志がすごい。明治時代になって足利学校が廃校になると、その跡地には近代的な公立小学校(後の足利市立東小学校)が建てられ、古い建物のほとんどが取り壊されてしまった。しかし、昭和50年代に「日本最古の学校の姿を正しく後世に遺そう」と、敷地内にあった東小学校を別の場所に移転し、その校舎を解体。それから全面的な発掘調査を経て、かつての建物をほぼ元通りに復元し、総工費約15億円をかけて1990年に完成させた。 全国には、かつてのお城の跡などが、現在は学校や役所として使われているケースが多く見られる。今の観光振興の観点から見ると惜しいと感じるものだが、学校などが建てられた当時は、まとまった土地を確保するうえで合理的な判断だったのだろう。それを今さら撤去するわけにも、なかなかいかないものだ。それを足利市は先頭を切って実行した。他の都市でも、佐賀市の佐賀城や福島県の白河小峰城など、小学校を移転して城跡を整備・復元した事例はあるが、足利市の取り組みはひと足早かった。 大河ドラマのロケ地として撮影に全面協力 当時はバブル経済の全盛期で、その熱気と財力が背景にあったのかもしれないが、それにしても並大抵の覚悟ではできないことだ。ちょうど同じ頃、NHKの大河ドラマでは足利尊氏を主人公とした「太平記」の制作が決定し、市内の広大な河川敷をロケ地として提供することになる。市や観光協会が主体となり、総工費1億4千万円という巨額の資金を自ら投じてオープンセットを建設し、NHKに全面協力した。そのかいあってか、1991年の放映の年には、足利市の観光客数が例年の2倍に増えたという。 足利学校のすぐ近くに「太平記館」という観光拠点施設がある。まさしく、この大河ドラマの放映を記念して建てられたものだ。今では、ドラマで使用した甲冑やわずかな写真が展示されている程度だから、この大河ドラマを知らない人は、その由来に気づかないかもしれない。そもそも足利尊氏は、生涯のほとんどを鎌倉や京都で過ごし、足利市を訪れたという記録すら残っていない。ひょっとすると、一度も訪れたことがなかった可能性もある。河川敷に造られた撮影セットも、鎌倉や京都の武家屋敷を再現したもので、足利の街を映し出したわけではなかった。ただ、尊氏が持っていた「天皇に弓を引いた逆賊」というイメージを、大河ドラマを通じて払拭できただけでも、市民にとっては嬉しいことだったようだ。 京都や鎌倉の風情を感じる街の構造とは 私もかつて大河ドラマ「太平記」を観たが、真田広之演じる尊氏が、苦悩しながらも人々を想い、新しい時代を切り開いていく姿が印象に残っている。しかし、今改めて思い返すと、尊氏の立ち振る舞いから滲み出る品格のようなものに惹かれる。もちろん、ドラマの演出によるところも大きいのだろう。鎌倉時代、京都の公家たちから見れば、関東の武士はしょせん「田舎武者」だった。しかし、ドラマの中の尊氏は、その徳と知性によって都の人々からも一目置かれる存在になっていく。その背景には、足利学校に象徴されるような、先祖の代から受け継がれてきた学問を重んじる風土があったのではないか。今回、足利を訪れて、そんな思いを強くした。 それを「都らしさ」というのか。だからではないだろうが、足利の街並みを見ていても感じることだ。どこか京都や鎌倉のような風情がある。私は、その理由のひとつが山の存在であることに気づいた。碁盤目のように縦横に走る道を歩いていると、どこからでも背後に山が見えるのだ。地形的には、三方を山に囲まれた三角形の平地だ。その三角形の底辺には渡良瀬川がある。鎌倉もよく似た構造で、南側には川ではなく由比ヶ浜が広がっている。 市街地を取り囲む山々と自然豊かな公園 私はまず、市の中心のすぐ西側にある山に登ってみた。足利市の裏山にあたる低山地帯は「足利県立自然公園」として、ハイキングコースがいくつか整備されている。織姫公園の駐車場からすぐに稜線に出られ、見晴らしのよい開放的なコースだ。途中には岩場もあり、アスレチック気分も楽しめる。「もみじ谷」では、まだベストシーズンよりも早かったが、少し紅葉を見ることができた。山の中腹には、自然と一体となってひっそりと佇むお寺もいくつか見かける。ここの雰囲気は、実に鎌倉っぽい。 織姫公園の見晴らしの良い場所にコンクリート造りの役所のような無機質な建物がある。表札なども出てなかったが、案内矢印を見ると「レストラン棟」と書かれてある。1階にはそば屋が入っていた。扉を開けて入ると、ロビーのような空間に、足利の街並みを再現したパノラマ模型が展示されていた。足利の「三角形」の街の形が手に取るように分かる。そこで私は初めて知ったのだが、足利市の中心には鉄道駅が2つあったのだ。しかも、川を挟んで両側に。 建物の中は、節電のためか照明が消えたままで暗かったが、おそろおそる階段を上っていった。きょろきょろしていたら、管理の人に捕まった。 「なにか御用ですか。」 すぐ、頭の中で用件を考えた。 「ここの部屋は借りられますか。」 すると、管理人は、室内を案内してくれた。ひとつはピアノが置かれた宴会場のような部屋で、その隣は畳の敷かれた広い和室だった。どちらの部屋の窓からも、足利市内とその向こうの景色が広がっていた。いちおう料金なども聞いてみた。1日借りても1600円くらいだった。ただし市外の人は5割増しという。 「ヨガとか、ピアノ教室とかですかね。クリスマスパーティで貸し切る人もいます。新宿もスカイツリーも見えますよ。赤城おろしで霧が晴れる日には富士山もきれいに見えます。」 展望台から見えた東武線とJRの“2つの駅” 最上階の無料展望室も案内してくれた。そんなに高い場所ではないはずだが、ここからは関東平野がとてもよく見渡せる。渡良瀬川の向こうに、駅らしい建物も見える。あれが東武線の「足利市駅」だ。川のすぐ手前にはJR両毛線の「足利駅」がある。2つの駅が連絡通路などでつながっているわけではない。 「東武足利駅とは離れちゃってね。最近では、東武駅のほうが栄えてきたかな。JRも、5月の藤棚の時期にはフラワーパークの客でいっぱいになるけどね。それと、年寄りのハイキング客が多いかな。なんせお金がかからないからね。」 足利の街並みと川を見渡す美しい神社 レストラン棟から少し下りたところに「足利織姫神社」がある。朱塗りの美しい社殿が印象的だ。ここの境内からも足利市街や渡良瀬川を見渡すことができる。ここからは夜景もきれいらしい。「恋人の聖地」として愛の鐘も置かれてあった。ここが市民のデートやプロポーズの定番スポットということか。「織姫」という名称が七夕を連想させてロマンチックだが、その由来は、足利が1200年以上の歴史を持つ「織物の街」であることにある。この神社は、市民にとって自分たちの街を豊かにしてくれた歴史と伝統へのリスペクトの象徴でもあるわけだ。 渡良瀬川の河原と芝生広場 織姫神社から階段を下りて、まっすぐに伸びる道路を進むと、突き当たりに大きな芝生の河原が広がっていた。芝生では、母親が赤ちゃんの写真を撮っているところだった。誕生祝いか何かだろうか。着飾った赤ちゃんの周りには、写真スタジオ並みのセットが置かれていた。屋内の撮影所ではなく、どうしてもここで撮りたかったのだろう。河原を見下ろす場所には、小さな道の駅のような建物があった。その「わたらせリバープラザ」には河原を眺めるレストランが入っていて、無料の休憩所もある。 河原から川の流れのすぐそばまで降りられる場所があった。渡良瀬川を間近に眺めた。きれいだった。広い川には濁っているイメージがあったが、ここの水は澄んでいて、流れも比較的急だった。広大な河原を見ると下流の川のように思えるが、ここはまだ中流なのだ。山から出たばかりの川の流れだ。 眺めのいい橋、子どもの成長を祈るための山頂の神社 河原のすぐ目の前に見える橋を渡ってみた。少し年代を感じる鉄骨トラス組みの橋だ。車道は片側1車線なのに、歩道がやたら広い。おそらく、通学時間などにはかなり混雑するのかもしれない。これが、街の北と南を結ぶ大切な日常動線なのだ。ここからの渡良瀬川の眺めが美しい。間近で見るのもいいが、橋の上から眺めるのもいい。遠くには群馬の山々が見える。森高千里の歌の歌詞が自然と浮かんできて、思わず口ずさんだ。 橋を渡ったところに、「女浅間神社」と書かれた小さな表札がある。そこから急な階段を登ると、「ペタンコ祭り」の看板があった。しかし、訪れたときは閉まっていた。ここは、地元では女児の初山参りに訪れる場所で、300年ほどの歴史があり、民俗文化財にも指定されているという。「ペタンコ」とは、赤ちゃんの額に御朱印をペタンと押すことから、そう呼ばれている。なお、男児の初山参りには、この南側の山頂にある「男浅間神社」を訪れるという。 川の南側に広がるロードサイドの街並み 川の南側に広がる風景は、北側に比べると雰囲気がぐっと変わる。ロードサイド店が並ぶ、郊外のような比較的新しい街並みだ。市内を南北に走る国道293号線沿いには、チェーン店の看板がずらりと並ぶ。日本中どこでも見かけるお馴染みの光景だ。ここに来れば何でも揃うと言わんばかりに。そして、その道路の南端で国道50号線のバイパスと交差する。 地図で見ると、この「南側」の街も独特の形をしている。まず、東武線が大きな弧を描くように街を取り囲んでいる。そして、その南側を国道50号線のバイパスが走る。北側の街が山と川に挟まれた三角形だったのと、どこか似た構造になっている。 円を描くように走ることになった東武線 なぜ、東武線はこんな形で走っているのか。もともとは東京方面から両毛鉄道の足利駅に接続する構想があったという。しかし、渡良瀬川に橋を架けるコストなどの問題から断念し、川の手前に「足利町駅」(現在の足利市駅)を設けて開業した。その後、伊勢崎まで延伸して伊勢崎線となった。結果として、現在の東武伊勢崎線は足利市駅を経由するために大きく迂回する形となり、地図上では円弧を描くような路線になっている。 そのため、南側の市街地は、3つの駅(足利市駅・野州山辺駅・東武和泉駅)に囲まれるような形になった。この区域内なら、徒歩でほぼ20分以内でいずれかの駅に行けるほどだ。通勤通学に便利なのは言うまでもない。また、この区域には大規模な工場も多い。足利市の都市計画図を見ても、駅周辺に工業系の用途地域が広く配置されていることが分かる。 新旧の2つの街が共存して発展してきた 東武線が開通するまでは、この一帯は広大な田園地帯だった。それが、鉄道の建設と同じ時期に大規模な繊維工場が建てられた。これを皮切りに、それまで手作業が中心だった織物産業の大きな転換が進んだ。工場を建てるための広い土地を確保できたことで、足利市は近代工業化の波に乗ることができたのだ。しかも、結果として北側の歴史ある旧市街地を壊してしまうことなく、新しい産業と街を発展させ、両者を共存させることができたわけだ。 再度、橋を渡って、北側の市街地に向かった。東武足利市駅の北口ロータリーの目の前はすぐ土手になっていて、そこから歩行者と自転車専用のアーチ橋が架かっている。電車に乗り遅れまいと、女子学生たちが駆け出す姿があった。JR足利駅との乗り換えには、その都度この橋を渡るしかない。眺めはよいが、真冬は寒そうだ。なにせ、北から吹きつける空っ風が厳しいことで有名な土地だ。駅から駅まで、歩いてだいたい15分くらいだろうか。 名曲「渡良瀬橋」の舞台となった街 JR足利駅までたどり着いた頃には、歩き疲れて、待合室のベンチにどさりと腰を下ろした。すると、目の前に森高千里が映ったポスターが掲げられていた。「あしかが輝き大使」に任命されたことへのお礼が添えられていた。私はここでやっと気づいた。あの名曲のタイトルは「渡良瀬橋」。そして、さっき私がその歌を口ずさんで渡ったのがまさしくその橋だったのだ。私は、この曲の舞台は、もっと下流の古河あたりだろうとなんとなく思っていた。渡良瀬遊水地のイメージがあった。それが実は足利市だったとは。 あらためて、歌の歌詞を思い返してみた。なんだか、どのフレーズも、今日見てきたままだ。私は、そうとも知らずに、この歌詞の世界をたどるかのような旅をしてしまった。 森高千里「渡良瀬橋」 https://www.youtube.com/watch?v=8m03y--CyCE&list=RD8m03y--CyCE&start_radio=1 背伸びをしないありのままの日常への共感 この曲が発売されたのは、1993年。バブルが崩壊し、それまでの華やかな時代が終わりを迎えていた頃だ。つい数年前までは、海外リゾートや高級車など、贅沢が美徳とされていた。ところが、この曲に出てくるのは、床屋、河原、神社など、それらとはまったく違う、どこにでもある地味なものばかり。それを、それまでミニスカートやコスプレなど、バブルを象徴するかのような出で立ちがウリだった森高が、一転して地味な衣装に身を包んで歌う。その変化は、当時大きな衝撃だった。 その後、カラオケに行くと、女子が決まって歌うような定番曲となり、それで私も歌詞をなんとなく覚えた。この歌は、故郷に残った女性が、遠く離れてしまった恋人を思い返す物語だ。彼氏が住みたいと言うほど、夕日のきれいな街。空が広く、遠くに山々が見える街。そんな描写は、ある意味、どこにでもありそうな街だ。多くの人が懐かしく思い、離れたくないと感じるような生まれ故郷。けれども、二人が離れ離れになった理由は、それだけではなかったのかもしれない。歌には語られない事情や葛藤があり、愛しい人と別々の道を歩む決意をしたのだろう。その切なさが、多くの人々の共感を生んだのだと思う。 しかし、あれから30年以上。今の若い女性たちは、故郷に残ることをどう考えているのだろうか。地方から女性が流出していると聞く。それによって出生数も減り、人口減少や高齢化に拍車がかかる。曲の舞台となった足利市の人口も、1990年頃をピークに、現在では2割ほど減っている。「渡良瀬橋」は、今ではただの懐メロでしかないのだろうか。今の世代にも、この曲は共感されるのだろうか。それは、何らかの機会にリサーチしてみたいところだ。 街の不思議な心地よさの正体とは 曲のことを知ってしまうと、またこの街が違って見えてくるから不思議だ。蔵などの古い建物はたくさんある。しかし、それらがまとまって歴史的な景観を作っているほどでもない。新旧の建物が入り組んで混在している。それなのに、なぜか調和しているように見える。どこの街でも見かけるような廃墟となった建物も、あちこちにある。けれども、街全体の活気は失われていないような気がする。どこか、歩いていて心地よさを感じる。 その心地よさを支えているもののひとつが、喫茶店なのかもしれない。いい感じにレトロさを醸し出すカフェがあちこちにあり、ちゃんと営業していて、人の気配がある。そのひとつにふらっと入ってみた。「モカ」と看板に出ていた。後で知ったのだが、創業から半世紀ほどになる有名店だった。天然木のカウンターに腰掛けてメニューを見ると、コーヒー豆の銘柄がずらりと並んでいた。この店は、豆の焙煎所でもあった。狭い店内だったが、テーブル席は地元の人らしい客で満席だった。さらに、次々と入り口から顔を出す地元の人が、「今日は混んでるね」と、豆だけ買って帰っていく。ほかの店も覗いてみると、同じように豆にこだわっている店が、この街ではどうやらスタンダードのようだ。私が渋谷でこういうスタイルの珈琲店を知っているのは、数軒しかない。渋谷が負けている。足利にこのようなカフェ文化が根付いた経緯はよく分からない。これもリサーチが必要だ。 帰りの車では、渡良瀬橋が渋滞していた。ちょうど夕暮れ時だった。渡良瀬川は、この付近では東西に流れている。それで、川の流れが伸びる方向に日が沈んでいく。夕焼け空が、そのまま水面に映る。だからだ。夕日がきれいな街。 【参考資料】 ・足利市観光協会「足利氏との関わり」 https://www.ashikaga-kankou.jp/introduce/relation ・足利市「足利学校の歴史」 https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/education/000031/000180/p001417.html ・末吉としひろ「あしかが歴史紀行|足利駅と足利市駅が連結していない謎」 https://sueyoshi-toshihiro.com/?p=3606 ・足利市観光協会「足利市の歴史」 https://www.ashikaga-kankou.jp/introduce/establish ・ahead「森高千里の『渡良瀬橋』を訪ねて」 https://ahead-magazine.com/archives/5495/

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    鑁阿寺に向かう大日大門通りにある「征夷大将軍足利尊氏公像」

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    金剛山鑁阿寺(ばんなじ)

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    大日大門通り沿いの蔵

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    大日大門通りの古い街並み

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    外堀からの足利学校

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    足利学校の「学校門」

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    足利学校の「方丈」は改修工事中だった

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    足利学校の「遺蹟図書館」

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    大河ドラマを記念して建てられた「太平記館」内に展示された甲冑

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    織姫公園内の「もみじ谷」

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    織姫公園「レストラン棟」展望室からの眺め

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    足利織姫神社

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    織姫神社からの眺望

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    渡良瀬川と渡良瀬橋

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    渡良瀬川の河原の芝生と「わたらせリバープラザ」

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    河原に下りて流れを見る

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    渡良瀬橋と「女浅間神社」の山

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    渡良瀬橋からの眺め

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    市内を走るJR両毛線の線路

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    川の南側には大型ロードサイド店が並ぶ

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    東武足利市駅からJR足利駅への乗り換えで渡る「中橋」3連アーチ橋(歩行者・自転車専用橋)

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    JR足利駅(両毛線)

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    足利駅の改札

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    足利駅の待合所で見かけた森高千里のポスター

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    市内の昭和レトロな街並み

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    空き家状態になっている建物も

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    蔵を改修したベーカリーカフェ「珈琲藏」

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    日本家屋の一部を改装したレストラン「ぽるか」

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    「モカ」直火焙煎コーヒー店

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    「モカ」で注文したケーキセット

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    市内には古い蔵が数多く点在している

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