不動産を直接売り買いする人たちの掲示板「家いちば」

家いちば見聞録

天空の城下町“沼田”の誇り高き闘いはいつまで続くのか【沼田後編】

群馬県沼田市|日本一美しい河岸段丘が生んだ奇跡の街 東京から新潟方面に向かう関越自動車道で、長い関東平野の道のりを過ぎて、いよいよ山越えに入るぞという頃に、一瞬視界が開けるポイントがある。ちょっと見慣れない光景だ。崖の上が平らになっていて、そこに市街地が広がっている。まるでショートケーキのような形だ。私が気取ってそう表現するのではない。何か可愛らしい感じがするのだ。それに、眺めが良さそうだ。けれども、崖に囲まれた地形で不便ではないのか、心配にもなる。すぐにインター出口の標識が出る。「沼田」だ。 沼田独特の“河岸段丘”の姿 インターを降りて、沼田市街を取り囲む河岸段丘のビュースポットに行った。展望台に上がると、すぐ目の前は、赤城山の広大な裾野とそれが途中でストンと崖になっている。河川によって削られた河岸段丘であることがひと目で分かる。沼田は右の方で遠くに見える。赤城山の裾野に広がる河岸段丘に比べると、沼田の台地はずっと小さい。南北を利根川水系の川に削られ、先端が尖ったエッジのような形をしている。やはりショートケーキだ。沼田の市街地は、そのエッジ部分に密集している。かつて、その先端部分には沼田城の天守閣がそびえていたというが、今はない。もしあれば、ケーキの上の苺のように見えたであろう。 名だたる武将たちが沼田を奪い合った戦国時代 沼田の名前が印象に残っているのは、2016年の大河ドラマ「真田丸」で度々登場する地名だったからだ。家康に北条、それに真田家と、なぜか執拗にこの地をめぐって調略したり奪い合ったりする。最後は、名将真田幸村が大坂夏の陣で家康を自害寸前まで追い詰めたのち命果てる。一方、兄の信之は徳川の世を生き抜き、沼田を含む真田家の領地を守っていくという物語だった。 沼田城址を整備して作られた沼田公園 その舞台となる沼田城があった場所一帯が、現在は沼田公園として整備されている。お城らしい建物はない。石垣もわずかに残されているだけだ。なぜかクジャクなどを入れた檻がいくつか並んでいて、ちょっとした動物園のようになっている。目につくのは、キャラクター化された真田家の面々のパネルで、あちこちに置かれている。ゲームの登場人物として、かなり美形化されたものだ。そのすぐ隣には、キャラクター化されていない真田信之と、その正室・小松姫の精巧な立像があり、現実と虚構との落差を感じてしまった。 しかし、市民公園としては立派なもので、木々が空高くそびえ、居並ぶ様子は神々しさすらある。かつて城郭の崖に面した先端部分だった場所は、展望台になっている。そこからは、眼下の平地の向こうに、それを取り囲むように谷川岳や武尊山などの名だたる山々がずらりと並び、一望できる。その向こうは、信濃や越後の国だ。山を越えて敵が攻めてくるとすれば、必ずここを通ることになる。戦国時代、沼田の台地が防衛の要として、武将たちが欲しがったのもよく分かる。 全国的に珍しい「天空の城下町」 それに、沼田は単なる山城ではない。信長の安土城をはじめ、山の頂上に城が築かれた例は国内にいくらでもある。その場合、城下町は山の下に作られるものだ。しかし沼田の場合は、城下町まで丸ごと台地の上に広がっているという、とても珍しい街の構造になっている。南北を河岸段丘の崖にはさまれた独特の地形が生み出した、奇跡のようなものだ。そのため沼田は、「天空の城下町」とも呼ばれている。下界との高低差は約80メートル。ビルの20階ほどの高さだ。城と街とが一体となって身を寄せ、外敵から守られている。 幕府から取り壊しを命じられた城の運命 この独特な町のつくりそのものが、市民の誇りなのだろう。しかし、そのシンボルだった沼田城がなくなった経緯には、凄まじいものがあった。江戸時代、5代藩主・真田信利の頃、その悪政によって領民は苦しめられていた。そのほか幕府の普請工事での不手際などもあり、幕府から厳しい処分が下った。領地は没収され、沼田藩は取り潰し。城も徹底的に破却された。当時の領民は、その幕府の措置を大いに歓迎したという。立派な天守閣は、むしろ悪政の象徴のように映っていたのかもしれない。もちろん現代ではそれも過去のこととなり、市民の間では沼田城を再建しようという運動も行われている。 公園を寄贈した“久米民之助”という人物 ふと、公園の片隅に建つ石碑に目が止まった。「沼田公園寄贈者」と書かれている。その人物は、久米民之助だ。大正時代、廃城となって荒れ地のままだったこの土地を私財で買い取り、公園として整備したうえで、旧沼田町に寄付した。民之助は沼田藩内の武家屋敷に生まれ、その後、宮内省で活躍し、皇居の二重橋の設計なども手掛けている。なお、東急電鉄の創業者・五島慶太の妻は民之助の長女で、民之助は五島慶太の義父にあたる。 沼田ゆかりの洋館邸宅を移築保存した「大正ロマンエリア」 その民之助が住んでいた邸宅を見ることができる場所が、市内にある。そこは「大正ロマンエリア」と呼ばれ、民之助が晩年に過ごした「旧久米家住宅洋館」が、東京から移築されて保存、公開されている。この洋館は、かつて渋谷区の代々木上原にあった広大な邸宅「代々木御殿」の一部で、2020年に解体の危機にあったものを民之助の生まれ故郷である沼田市が引き取ったのだ。 このロマンエリアには、このほかに、沼田藩の最後の藩主を務めた土岐家の洋館も移築保存されている。同じく東京の渋谷区の広尾にあった邸宅を、これも解体を逃れるように1990年に一度沼田公園内に移築されたものを、現在の場所に再移築された。 たまたまなのか、この二つの沼田ゆかりの人物の邸宅は、どちらも渋谷区にあった。そして、東京ではその場所に必要とされなくなり、解体されそうになった。いずれの土地も、今では高級住宅地となっている。故郷を出て東京で一旗を上げ、長い年月を経て、最後は故郷に戻って静かに余生を過ごす。まるでそんな人生をたどるように、二つの洋館は今、沼田に並んで建っている。 文化的気風を育んだ商家“生方家”の存在 沼田公園内には、「旧生方家住宅」という古い商家を移築保存した資料館もある。もともと市街地の中心部にあった薬屋の建物だ。生方家は、沼田藩御用達の薬種商として、殿様や武士たちに薬を納める重要な役割を担っていた。その後、29代目当主の生方誠氏は、沼田町長や初代国家公安委員などを歴任し、沼田の発展に大いに貢献した。資料館には、誠氏が生前に収集した貴重な絵画なども収蔵、展示されている。こういった人物の存在が、沼田の文化や気風にも少なからず影響を与えてきたのではないだろうか。なお、生方家に嫁いだ生方たつゑ氏も、戦後の女流歌人として活躍し、沼田市名誉市民となっている。 この薬屋「かどふぢ」の建物も、道路拡幅によって取り壊されそうになったところを、移築によって救われたものだ。これは1970年代のことで、沼田市にとっても、歴史的建造物を移築保存した初期の事例ということになる。都市の再開発や道路拡幅など、時代の流れには逆らえない。しかし、そこで黙って指をくわえて見ているだけではない。救うべきものは何としてでも救う。そんな気概を感じる。 寂れていく商店街という現実 しかし、沼田の市街地を実際に歩いてみると、時代に取り残されたまま、寂れてしまっている商店がいくつも並んでいた。昔ながらの洋品店やふとん屋など、今の時代に正直客が来るのかどうか分からない。それでも、いちおう開店はしているようで、店主らしき女性が奥の方に座り、通りをぼんやり眺めている。もちろん沼田に限ったことではない、日本中で見かける光景である。救うべきものがたくさんありすぎて、これでは手が回らないだろう。大正ロマンエリアはそんな中心街の一角に隣接してあり、そこだけ小ぎれいに整備されているため、やや浮いて見える。これも現実と虚構だ、というわけではないだろう。 廃墟化しつつあった商業ビルをリノベーション その「現実」の街並みのど真ん中に、ひときわ大きな塊となってそびえ建つ、無機質な真っ白い建物があった。病院か何かだと思った。案内板を見ると、「TERRACE NUMATA」という名称で、市役所などが入ったビルだと分かった。私が向かっていた歴史資料館も、この2階にある。サインのデザインは役所らしくなく、今風だった。それに外壁も内装もピカピカだったので、新築されたものだと思った。しかし、後で知ったのだが、これは既存のビルをリノベーションしたものだった。 元々は「グリーンベル21」という複合商業施設で、最初に建てられたのは、バブルの余韻がまだ残る1993年。メインテナントに「沼田サティ」が入り、そのほかに40店を超える専門店が軒を連ね、中心市街地活性化の核として華々しくオープンし、当初は大いに賑わった。しかし、開業からわずか9年でサティが撤退。その後、所有者が二転三転しながらも、最終的には全館閉鎖の巨大な空きビルとなってしまっていた。 そこに、ちょうど、市役所の建設移転を検討していた沼田市が、このビルの活用を考えはじめた。そして、その計画を大きく後押ししたのが、2014年の市長選で当選した横山公一前市長だった。その後わずか5年間で、グリーンベル21の買収と改修工事をまとめ上げ、2019年にテラス沼田としてリニューアルオープンさせたのだ。 このリノベーションプロジェクトは、建築界でも注目されるものとなった。商業施設だった建物は窓が少なく、閉鎖的だった。それでは、市民に開かれた公共施設にはそぐわない。たいていは、この時点で改修そのものをあきらめ、「新しく建てた方が早い」となってしまいそうなところだ。しかしここでは、大胆にも床を大きくくり抜いて吹き抜けをつくり、自然光が差し込む開放的な空間を作り上げた。それに、床を減らしてもお釣りが来るほど十分な広さがあった。そこで市役所だけでなく、市民活動施設や歴史資料館なども集約した。巨大すぎることが弱点だった建物を、逆にその大きさを利用して再生したわけだ。このプロジェクトは、BELCA賞をはじめ、建物再生の分野の賞をいくつか受賞している。 財政面でも工夫がされた計画 公表された資料を見ると、市役所だけを新築する場合には約32億円かかると試算されていたのに対し、既存ビルを改修した市役所部分は約20億円に抑えられている。市民活動施設や資料館、商業施設なども含めた全体では約40億円となったが、それだけ多くの機能を一つの建物に集約したことを考えれば、収支面でもなかなか合理的な選択だったと言えるのではないだろうか。なお、市役所の移転によって空いた旧庁舎の土地は、民間のホテル事業者に貸し出され、長期的に賃料収入を得られる仕組みにもなった。 吹き抜けにしたことで生まれたオープンテラスでは、若い人たちが勉強をしたり、食事をしたりしていた。テラスに面してFMラジオのスタジオもある。今はまだ、イスとテーブルがまばらに置いてあるだけで、やや物足りなさもあるが、そこは長い時間をかけて育てていけばいい。いきなりお金をかけて華美にする必要もない。私はここが商業施設として賑わっていた頃も、その後に廃墟化していた時代も知らない。けれども、その両方を知る昔からの市民にとっては、ひとまず今のようにきれいになったことに安堵しているのではないだろうか。そしてそれが、「やればできる」という自信に変わっていけばいい。 市街地と駅を隔てる80メートルの崖 崖の下まで歩いて降りてみることにした。果たして道があるのかと思うくらいの断崖絶壁だ。しかし、その崖のすぐ下には駅がある。これもまた、街としては奇妙な造りだ。市街地と駅との往来といえば、普通なら街の中でもっとも人や車の行き来が多い場所のはずだ。ところが沼田の場合、その間に80メートルもの崖があり、行く手を阻んでいる。なぜ、こんなことになってしまったのか。 上越線の沼田駅が開業したのは、ちょうど100年ほど前の大正時代だ。鉄道は急な勾配に弱い。80メートルもの崖の上まで線路を引き上げるのは難しく、駅は現在の段丘下に作られた。ここが、沼田の運命の分かれ道だった。その後、鉄道の利用が増えるにつれて、駅と市街地との往来も増えていった。その都度、新しい道路を作るなどして対応してきた。 反対に、中心街を駅周辺へ移していくわけにもいかなかった。市街地を広げられるほどの土地がない。三方を川に囲まれた土地だ。戦国時代なら、そこに敵を誘き寄せて一気に攻め落とすのに都合がよかったに違いない。しかし今は、戦さの時代ではない。 そのうち時代は移り、交通の主役は自動車となった。鉄道の利用も減っていった。駅で時刻表を見ると、1時間に1本どころか、日中には列車が1本もない時間帯さえある。駅前の通りは、崖の上の市街地よりもさらに寂しかった。休日の日中ではあったが、ゴーストタウンに近かった。 坂道を上り下りする日常風景 それでも、通勤・通学で鉄道を使う人は、今でも少なくない。毎朝、坂道を登る学生たちの姿が日常風景になっているという。そのうちの「滝坂」を降りてみた。うっかりすると転げ落ちてしまいそうな急坂だ。途中からは階段となり、トンネルのように屋根がかかっている。雪対策のようだが、雪の日にこの坂を上り下りするのは、相当な根性が必要だ。もうひとつは「団子坂」だ。途中から地下道のトンネルになることから、「トンネル坂」とも呼ばれている。これも息の切れる長い階段道だが、眺めがとてもいい。映画やドラマのロケでもよく使われるそうだ。 そのほかの自動車用に整備された道路は、大きく迂回するため近道ではない。できれば、エレベーターかエスカレーターでもほしいくらいだ。少し前に、山梨県上野原市の「コモアしおつ」という住宅地と崖下の駅とを、珍しい「斜行エレベーター」で結んだ事例を見聞録で紹介したばかりだ。あんなのがほしい。当然、沼田市でもそういう議論はされてきたようだ。しかし、建設費や維持費などを考えると、採算が合わないのだろう。しかも、駅利用も人口も減っている時代だ。これがバブル時代なら、勢いで作ったかもしれない。コモアしおつも、バブルの産物だった。 家いちば見聞録【上野原編「コモアしおつ」】 https://ieichiba.com/kenbunroku/670%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8E%9F 幻のダム湖建設計画 沼田城の破却、崖下への鉄道建設ときて、もうひとつ、沼田市民を大きく揺さぶる出来事があった。ダム湖の建設計画だ。駅周辺を含む、崖の下の低地部分をそっくり水没させてダムを造るという計画だった。しかも、その規模が半端ではない。完成していれば「関東の琵琶湖」とも呼ばれたであろう壮大なスケールで、日本最大級のダム湖となるものだった。昭和30年代から持ち上がった計画で、高度成長期の真っただ中にあった首都圏の水不足を抜本的に解消しようという国家的なプロジェクトだった。 そもそも、沼田は太古の昔、湖の底だった。その湖底に堆積物が積もってできたのが、今の台地の平らな部分だ。その後、湖を堰き止めていた山の一部が決壊して湖は消失し、それから長い年月をかけて、利根川などの河川が崖を削り、今の「日本一美しい」とされる沼田の河岸段丘ができあがった。自然が作り、自然が壊した湖を、今度は人間が元に戻す。そう考えると、とても美しいストーリーにすら聞こえる。ダムに沈む沼田駅に代わって、新しい駅を崖の上に付け替える計画もあった。これなら、長年悩まされてきた坂の上り下りも解消される。なお、関越自動車道が沼田の手前で大きく迂回しているのも、このダム計画の影響だったとも言われている。 それでも当然、沼田市民は猛反対した。長い論争の末、計画は白紙撤回され、「幻のダム」となった。しかし、もしこのダムが完成していたら、利根川水系の治水や首都圏の水利用の歴史は、今とはずいぶん違ったものになっていたかもしれない。計画されていた貯水量は途方もない規模だった。後に造られた八ッ場ダムも、ひょっとすると必要なかったかもしれない。そうなれば、八ッ場の集落や渓谷の運命もまた違っていたことになる。そして今年も、利根川水系の北印旛沼で堤防が決壊し、周辺で大規模な浸水被害が起きた。利根川は、今も暴れ川なのだ。 「がんばる」道を選ぶ そうやって、地元も国も一緒に下した判断の結果、今の沼田の河岸段丘の光景が残されたわけだ。沼田市民も、坂の苦労は「がんばる」道を選んだのだ。「やればできる」の精神は、すでに沼田に根付いていた。かつては、戦国武将が争奪戦を繰り広げた沼田の地。その後も、鉄道、治水、モータリゼーションと、時代が変わるたびに新たな闘いが続いてきた。この先はどうなるのだろうか。しかし、その間もずっと、関東平野を作り上げた利根川水系は変わらず粛々と流れている。奥地に行けば、吹割の滝のような清らかな水流が、渓谷の岩盤に永い時の印を刻み込み続けている。 家いちば見聞録【沼田前編】 https://ieichiba.com/kenbunroku/683%E5%88%A9%E6%A0%B9%E6%9D%91

  • 0
  • 0
  • image

    河岸段丘ビュースポットから沼田方面を眺める

  • image

    沼田公園内の本丸御殿跡

  • image

    わずかに残る沼田城の石垣

  • image

    キャラクター化された小松姫と真田信之

  • image

    立像となっている小松姫と信之

  • image

    展望台(捨曲輪跡地)

  • image

    沼田城展望台から山々を一望

  • image

    沼田城天守閣があった頃の絵図

  • image

    旧生方家住宅(沼田公園内)

  • image

    久米民之助の碑「沼田公園寄贈者」

  • image

    大正ロマンエリアには整然とした区画に沼田ゆかりの歴史建造物が並ぶ

  • image

    旧沼田貯蓄銀行

  • image

    旧久米家住宅洋館

  • image

    久米家住宅の内部

  • image

    旧土岐家住宅洋館

  • image

    中心商店街の古い商店1

  • image

    中心商店街の古い商店2

  • image

    テラス沼田の案内板

  • image

    テラス沼田2階のオープンスペース

  • image

    団子坂の上から駅方面を見下ろす

  • image

    滝坂の途中では屋根がかかっている

  • image

    JR沼田駅から河岸段丘方面を見る

  • image

    団子坂(トンネル坂)の途中は地下道になる

  • image

    歴史資料館に展示された沼田の河岸段丘の模型

  • image

    幻のダム湖建設に関する解説(右側)

このエリアの売ります物件

日光 エリア

もっと見る

谷川岳 エリア

もっと見る
FAQ
よくある
ご質問